・・・トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑のにおいを煽りながら、ひた辷りに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」――良平は羽織に風を孕ませながら、当り前の事を考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」――そうもまた考・・・ 芥川竜之介 「トロッコ」
・・・するとほどなくあの婆娑羅の神が、まるで古沼の底から立つ瘴気のように、音もなく暗の中へ忍んで来て、そっと女の体へ乗移るのでしょう。お敏は次第に眼が据って、手足をぴくぴく引き攣らせると、もうあの婆が口忙しく畳みかける問に応じて、息もつかずに、秘・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・と船に乗り移る間ぎわにも、銭占屋はそのことを誓った。 汽船は出た。甲板に立った銭占屋の姿がだんだん遠ざかって行くのを見送りながら、私は今朝その話の中に引いた唄の文句を思いだして、「どこのいずこで果てるやら――まったくだ、空飛ぶ鳥だ!・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ」 喬はそんなことを思った。毎夜のように彼の坐る窓辺、その誘惑――病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、ここの高い欅の梢にも感じられるのだった・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・その音源はお園からは十メートル近くも離れた上手の太夫の咽喉と口腔にあるのであるが、人形の簡単なしかし必然的な姿態の吸引作用で、この音源が空中を飛躍して人形の口へ乗り移るのである。この魔術は、演技者がもしも生きた人間であったら決してしとげられ・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・この歌が街頭へ飛び出して自動車のおやじから乗客の作曲家に伝染し、この男が汽車へ乗ったおかげで同乗の兵隊に乗り移る。兵隊が行軍している途中からこの歌の魂がピーターパンの幽霊のような姿に移って横にけし飛んだと思うと、やがて流浪の民の夜営のたき火・・・ 寺田寅彦 「音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」」
・・・愛は、瞬間、ふきの表情がぴったり自分にも乗移るのを感じた。彼女は、力を入れて其を振払うようにした。「そう、お通しして」 出て見ると、照子は相変らず白粉けのない、さばさばした様子で、何のこだわりもなく「今日は――いつぞやは有難うご・・・ 宮本百合子 「斯ういう気持」
出典:青空文庫