・・・おぎんはこの夫婦と一しょに、牛を追ったり麦を刈ったり、幸福にその日を送っていた。勿論そう云う暮しの中にも、村人の目に立たない限りは、断食や祈祷も怠った事はない。おぎんは井戸端の無花果のかげに、大きい三日月を仰ぎながら、しばしば熱心に祈祷を凝・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・不相変赤シャツを着たO君は午飯の支度でもしていたのか、垣越しに見える井戸端にせっせとポンプを動かしていた。僕は秦皮樹のステッキを挙げ、O君にちょっと合図をした。「そっちから上って下さい。――やあ、君も来ていたのか?」 O君は僕がK君・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を汲んでいる女衆や、畑から帰って来る男衆は、良平が喘ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明・・・ 芥川竜之介 「トロッコ」
・・・ びしゃびしゃ……水だらけの湿っぽい井戸端を、草履か、跣足か、沈んで踏んで、陰気に手水鉢の柱に縋って、そこで息を吐く、肩を一つ揺ったが、敷石の上へ、蹌踉々々。 口を開いて、唇赤く、パッと蝋の火を吸った形の、正面の鰐口の下へ、髯のもじ・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・かつ溝川にも、井戸端にも、傾いた軒、崩れた壁の小家にさえ、大抵皆、菖蒲、杜若を植えていた。 弁財天の御心が、自ら土地にあらわれるのであろう。 忽ち、風暗く、柳が靡いた。 停車場へ入った時は、皆待合室にいすくまったほどである。風は・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・いちじくの葉かげから見えたのは、しごき一つのだらしない寝巻き姿が、楊枝をくわえて、井戸端からこちらを見て笑っている。「正ちゃん、いいものをあげようか?」「ああ」と立ちあがって、両手を出した。「ほうるよ」と、しなやかにだが、勢いよ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・落葉が降り留っている井戸端の漆喰へ、洗面のとき吐く痰は、黄緑色からにぶい血の色を出すようになり、時にそれは驚くほど鮮かな紅に冴えた。堯が間借り二階の四畳半で床を離れる時分には、主婦の朝の洗濯は夙うに済んでいて、漆喰は乾いてしまっている。その・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・ 冬の寒い日だった。井戸端の氷は朝から、そのまま解けずにかたまっていた。仕事をしていても手は凍てつきそうだった。タバコが来ると、皆な急いで焚き火の方へ走って行った。「京よ、一寸、まかない棒を持って来い。」 さきから来て温まっ・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・変だと思いながら、あり合せの下駄を提げて井戸端へ出て、足を洗おうとしていると、誰かしら障子の内でしくしくと啜り泣きをしている。障子を開けてみると章坊である。足を投げ出してしょんぼりしている。「どうしたんだ」と問えど、返事もしないでただ涙・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・お祭の当日は朝からよく晴れていて私が顔を洗いに井戸端へ出たら、佐吉さんの妹さんは頭の手拭いを取って、おめでとうございます、と私に挨拶いたしました。ああ、おめでとう、と私も不自然でなくお祝いの言葉を返す事が出来ました。佐吉さんは、超然として、・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
出典:青空文庫