・・・と言うのは亜鉛屋根に青ペンキを塗った達磨茶屋です。当時は今ほど東京風にならず、軒には糸瓜なども下っていたそうですから、女も皆田舎じみていたことでしょう。が、お松は「青ペン」でもとにかく第一の美人になっていました。もっともどのくらいの美人だっ・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・すると亜鉛の海鼠板を積んだ荷車が何台も通って行った。「あれはどこへ行く?」 僕の先輩はこう言った。が、僕はどこへ行くか見当も何もつかなかった。「寿座! じゃあの荷車に積んであるのは?」 僕は今度は勢い好く言った。「ブリッ・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・が何日かを忙しい中に暮らした事務室を去った時、窓から首を出して見たら、泥まみれの砂利の上には、素枯れかかった檜や、たけの低い白楊が、あざやかな短い影を落して、真昼の日が赤々とした鼠色の校舎の羽目には、亜鉛板やほうきがよせかけてあるのが見えた・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・窓の外には往来の向うに亜鉛屋根の古着屋が一軒、職工用の青服だのカアキ色のマントだのをぶら下げていた。 その夜学校には六時半から、英語会が開かれるはずになっていた。それへ出席する義務のあった彼はこの町に住んでいない関係上、厭でも放課後六時・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・そこにはもう赤錆のふいた亜鉛葺の納屋が一棟あった。納屋の中にはストオヴが一つ、西洋風の机が一つ、それから頭や腕のない石膏の女人像が一つあった。殊にその女人像は一面に埃におおわれたまま、ストオヴの前に横になっていた。「するとその肺病患者は・・・ 芥川竜之介 「悠々荘」
・・・ 道を挟んで、牡丹と相向う処に、亜鉛と柿の継はぎなのが、ともに腐れ、屋根が落ち、柱の倒れた、以前掛茶屋か、中食であったらしい伏屋の残骸が、蓬の裡にのめっていた。あるいは、足休めの客の愛想に、道の対う側を花畑にしていたものかも知れない。流・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・……森のめぐりの雨雲は、陰惨な鼠色の隈を取った可恐い面のようで、家々の棟は、瓦の牙を噛み、歯を重ねた、その上に二処、三処、赤煉瓦の軒と、亜鉛屋根の引剥が、高い空に、赫と赤い歯茎を剥いた、人を啖う鬼の口に髣髴する。……その森、その樹立は、……・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・宅の洗面台はきわめて粗末な普通のいわゆる流しになっていて、木製の箱の上に亜鉛板を張ったものであるが、それが凹凸があって下の板としっくり密着していないために、洗面鉢の水が動揺するにつれて鉢自身がやはり少しの傾斜振動をする。しかるに鉢の底面から・・・ 寺田寅彦 「日常身辺の物理的諸問題」
・・・それもじきやんで五月雨の軒の玉水が亜鉛のとゆにむせんでいる。骨を打つ音は思い出したように台所にひびく。 昼から俊ちゃんなどと、じき隣の新宅へ遊びに行った。内の人は皆ねえさんのほうへ手伝いに行っているので、ただ中気で手足のきかぬ祖父さんと・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・もう耳が駄目でさ。亜鉛屋根にパラパラと来る雨の音が聞えなくなりましたからね、随分不断に使った躯ですよ。若い時分にゃ宇都宮まで俥ひいて、日帰りでしたからね。あアお午後ぶらぶらと向を出て八時なら八時に数寄屋橋まで著けろと云や、丁と其時間に入った・・・ 徳田秋声 「躯」
出典:青空文庫