・・・彼女という一つのゆたかな輪の上にマークという輪、ブレークという輪が交錯し合ったけれども、二つの環が完全に重なり合ってしまうということはなかった。男は、自分一人で彼女のすべてを充しきり独占してしまえないことが判ると、堪えがたく焦燥して彼女から・・・ 宮本百合子 「『この心の誇り』」
・・・決して反復されることない個人の全生涯の運命と歴史の運命とは、ここに於て無限の複雑さ、真実さをもって交錯しあっているのである。 ジイドが、彼の才能と称され、又誤って評価された観念性によって新しい一つの社会を偶像化して空想したことは彼の自由・・・ 宮本百合子 「こわれた鏡」
・・・ 世相的、風俗的作品として、あれこれの小説が時代のただの反射として書かれていたとき、藤村は水面の波としてあらわれるそれ等の現象の底まで身を沈めて、日本のその時代を一貫する流のなかにあった寒流・暖流の交錯の悲劇にまでふれようと試みたのであっ・・・ 宮本百合子 「作家と時代意識」
・・・が、一つの悲しみ、一つのよろこび、あるいは憧憬を、独自であって普遍な精神的収穫としてゆくために、わたしたちの眼は、錯雑する現実にくい入って、交錯した諸関係、その影響しあう利害、心理の明暗を抉出したいと欲する。芸術は、ますます生きつつあること・・・ 宮本百合子 「作家の経験」
・・・自然と人間との感情の交錯を、人間の主観の立場に立って観察したわかり易い一例であると思う。 古人がすでにその風流の途上で看破している自然と人間の主観との以上のような交流は、特に日本古典文学の領域の中でおびただしい表現をもっているのである。・・・ 宮本百合子 「自然描写における社会性について」
・・・或る種の眼には実にわがもの顔に文学の領域を踏みあらしていたと思われる左翼の文学が、今やそのような形で自身への哀歌を奏している姿は、一種云うに云えない交錯した感覚であったろう。 転向文学と云われた作品はそれぞれの型の血液を流したが、それは・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・人間のする事の動機は縦横に交錯して伸びるサフランの葉の如く容易には自分にも分からない。それを強いて、烟脂を舐めた蛙が膓をさらけだして洗うように洗い立てをして見たくもない。今私がこの鉢に水を掛けるように、物に手を出せば弥次馬と云う。手を引き込・・・ 森鴎外 「サフラン」
・・・にて塗りたる木の箱にて、中に乗りし十二人の客は肩腰相触れて、膝は犬牙のように交錯す。つくりつけの木の腰掛は、「フランケット」二枚敷きても膚を破らんとす。右左に帆木綿のとばりあり、上下にすじがね引きて、それを帳の端の環にとおしてあけたてす。山・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・その光と色との微妙な交錯は、全く類のないものであった。 楓だけでもそれぐらいであるが、東山の落葉樹から見れば楓はほんの一部分である。新緑のころ、東山の常緑樹の間に点綴されていかにも孟春らしい感じを醸し出す落葉樹は、葉の大きいもの、中ぐら・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
・・・自分の内には、自分の運命に対する強い信頼が小供の時から絶えず活らいていたけれども、またその側には常に自分の矮小と無力とを恥じる念があって、この両者の相交錯する脈搏の内にのみ自分の成長が行われていたのであるが、この時からその脈搏は止まってしま・・・ 和辻哲郎 「自己の肯定と否定と」
出典:青空文庫