・・・極端に言えば、旧文化に安住している人々には、又その時代の感情に陶酔し、享楽している人々には、ほんとうの意味の詩はない筈である。 子守唄は子供を寝かしつけるための歌であり、又舟乗りの唄は、舟をこぐ苦労を忘れるための歌であり、糸とりの唄はた・・・ 小川未明 「詩の精神は移動す」
・・・またそれを嘗めてみるのが私にとってなんともいえない享楽だったのだ。あのびいどろの味ほど幽かな涼しい味があるものか。私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなって落ち魄れた私に蘇えってくる故だろうか・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・ましてすでに結婚後の壮年期に達したるものの恋愛論は、もはや恋愛とは呼べない情事的、享楽的漁色的材料から帰納されたものが多いのであって、青年学生の恋愛観にとっては眉に唾すべきものである。 結婚後の壮年が女性を見る目は呪われているのだ。たと・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・それは宗教である。享楽ではない。 清姫の前には鐘があった。お七の前には火があった。そして橘媛の前には逆まく波があった。 恋愛の宝所はパセチックばかりではない。恋の灼熱が通って、徳の調和に――さらに湖のような英知と、青空のような静謐と・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・そして、そのことのおもしろ味を享楽する。彼は、ちょうど、その掏摸根性のような根性を持っていた。 密輸入商人の深沢洋行には、また、呉清輝のごとき人間がぜひ必要なのであった。 深沢は、シベリアを植民地のように思って、利権を漁って歩いた男・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・彼の頭の中には娘の豊満な肉体を享楽するただそのことがあるばかりだった。「看護卒!」 どっかで誰れかが叫んだ。しかし、それも何故であるか分らなかった。そして、叫声は後方へ去ってしまった。「突撃! 突撃ッ!」 小さい溝をとび越し・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・自由の利く者は誰しも享楽主義になりたがるこの不穏な世に大自由の出来る身を以て、淫欲までを禁遏したのは恐ろしい信仰心の凝固りであった。そして畏るべき鉄のような厳冷な態度で修法をはじめた。勿論生やさしい料簡方で出来る事ではない。 政元は堅固・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・ 旅行下手というものは、旅行の第一日に於て、既に旅行をいやになるほど満喫し、二日目は、旅費の殆んど全部を失っていることに気がつき、旅の風景を享楽するどころか、まことに俗な、金銭の心配だけで、へとへとになり、旅行も地獄、這うようにして女房・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・敗北に享楽したことがなかったか。不遇を尊敬したことがなかったか。愚かさを愛したことがなかったか。 全部、作家は、不幸である。誰もかれも、苦しみ苦しみ生きている。緒方氏を不幸にしたものは、緒方氏の作家である。緒方氏自身の作家精神である。た・・・ 太宰治 「緒方氏を殺した者」
・・・所詮は、あなた芸術家としてのひとり合点、ひとりでほくほく享楽しているだけのことではないの。気障だねえ。お止しなさい。私はあなたを愛していない。あなたはどだい美しくないもの。私が少しでも、あなたに関心を持っているとしたら、それはあなたの特異な・・・ 太宰治 「女の決闘」
出典:青空文庫