・・・ そこで写生文家なるものは真面目に人世を観じておらぬかの感が起る。なるほどそうかも知れぬ。しかし一方から見れば作者自身が恋に全精神を奪われ、金に全精神を捧げ、名に全精神を注いで、そうして恋と金と、名を求めつつある人物を描くよりも比較的に・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・ただ俳句十七字の小天地に今までは辛うじて一山一水一草一木を写し出だししものを、同じ区劃のうちに変化極まりなく活動止まざる人世の一部分なりとも縮写せんとするは難中の難に属す。俳句に人事的美を詠じたるもの少きゆえんなり。芭蕉、去来はむしろ天然に・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・り、十六になるということ、それはただ十四のものが二つ殖えて十六になったのではなくて、そこには十四であった少女の知らなかったどっさりの事、心もちが加って来ていて、自分らはもう十六であるという喜びと誇りと人世への待ちもうけとをもつようになってい・・・ 宮本百合子 「美しく豊な生活へ」
・・・ バルザックは嘘偽も人世のリアリティーの一つであることを正視する勇気をもっていた。 ゴンクールが自然主義作家であったが、大なるリアリスト作家でなかった所以。 そして、フランスの知識人は、彼等の人生に正当なおき場所で政治をうけとり・・・ 宮本百合子 「折たく柴」
・・・対等の気持では不可能であった。人世の鬼面に脅かされ心の拠りどころを失った若い女性に対するはる子の同情を押しひろめてのみ、千鶴子は容れられる。然し、千鶴子は折々微かでもそのような心持を含んで対されるさえ癪で、堪え難かったからあの手紙も書いたの・・・ 宮本百合子 「沈丁花」
・・・芥川に人世に対する好みがあって、愛の少なかった所以だ。○リアリストとしてのレムブラントからレムブラントのリアリズムへの飛躍○病気して居ると 一、早く朝になるのがよい。わるいときは六時頃でも。 一、きれいで元気な女を見・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
・・・そしてあの世棄人も、遠い、微かな夢のように、人世とか、喜怒哀楽とか、得喪利害とか云うものを思い浮べるだろう。しかしそれはあの男のためには、疾くに一切折伏し去った物に過ぎぬ。 暴風が起って、海が荒れて、波濤があの小家を撃ち、庭の木々が軋め・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・この悲境にあって詩人は深厳なる人世の批評をなしつつ断乎として悪を斥けた、黄金と虚栄とを怒罵の下に葬った。吾人はこの自信と信念とを渇仰する。 吾人の生活にかくのごとき信念を与うる者は芸術である。芸術は吾人を瑣細なる世事より救いて無我の境に・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫