・・・と、呼び止める。人並よりよほど広い額に頭痛膏をべたべたと貼り塞いでいる。昨夕の干潟の烏のようである。「昨日来なんしたげなの。わしゃちょうど馬を換えに行っとりましての」と、手を休めて、「乗りなんせい。今度のもおとなしゅうがんすわいの」・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・強い、というのでございましょうか、田舎のお百姓を相手のケチな商売にもいや気がさして、かれこれ二十年前、この女房を連れて東京へ出て来まして、浅草の、或る料理屋に夫婦ともに住込みの奉公をはじめまして、まあ人並に浮き沈みの苦労をして、すこし蓄えも・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・ 子供、……七歳の長女も、ことしの春に生れた次女も、少し風邪をひき易いけれども、まずまあ人並。しかし、四歳の長男は、痩せこけていて、まだ立てない。言葉は、アアとかダアとか言うきりで一語も話せず、また人の言葉を聞きわける事も出来ない。這っ・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・私は子供の時から人並以上の臆病者であったらしい。しかし私はこの臆病者であったということを今では別に恥辱だとは思っていない。むしろかえってそうであったことが私には幸運であったと思っている。 子供の時分にこの臆病な私の胆玉を脅かしたものの一・・・ 寺田寅彦 「家庭の人へ」
・・・ 胃が悪い悪いと年中こぼしながら存外人並以上に永生きをした老人を数人知っている。これも御馳走を喰い過ぎたくても喰い過ぎられなかったおかげかもしれないと思われる。食慾不振のおかげで、御馳走がまずく喰われるという幸運を持合せたのであろう。何・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・と一人が云うと「人並じゃ」と一人が答える。女ばかりは黙っている。「わしのはこうじゃ」と話しがまた元へ返る。火をつけ直した蚊遣の煙が、筒に穿てる三つの穴を洩れて三つの煙となる。「今度はつきました」と女が云う。三つの煙りが蓋の上に塊まって茶・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・探偵だって家へ帰れば妻もあり、子もあり、隣近所の付合は人並にしている。まるで道徳的観念に欠乏した動物ではない。たまには夜店で掛物をひやかしたり、盆栽の一鉢くらい眺める風流心はあるかも知れない。しかしながら探偵が探偵として職務にかかったら、た・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・刑法上、その行為の責任を負うに耐えないものとなっている事は、精神異常者その他人並の分別を一時的にしろ喪った者となっている。女子が、神経の弱い、社会的因襲による無智から常規を逸しやすいものとして、結論に当っていくらかの斟酌を加えられる場合は決・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
・・・お前だって人並みに学校へだってやれるんだのに……こうやって母子二人で食べるものを食べずに稼いだところで、この不景気じゃ綿入れ一つ着られやしない」 一太は困ったのと馴れているのとで別に返事をしなかった。「私ほど考えれば考えるほど不運な・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・は、下の部であっても一二%にすぎず、あと八〇%は「人並みの男」に過ぎないのであるが、強すぎた大将の下では、上中下の二〇%の武士を戦死させ、人並みの猿侍のみが残ることになるからである。こういう場合には、八〇%が残っていても、全滅と変わりはない・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫