・・・ 書面は求馬が今年の春、楓と二世の約束をした起請文の一枚であった。 三 寛文十年の夏、甚太夫は喜三郎と共に、雲州松江の城下へはいった。始めて大橋の上に立って、宍道湖の天に群っている雲の峰を眺めた時、二人の心・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・そして今年になって、農場がようやく成墾したので、明日は矢部もこの農場に出向いて来て、すっかり精算をしようというわけになっているのだ。明日の授受が済むまでは、縦令永年見慣れて来た早田でも、事業のうえ、競争者の手先と思わなければならぬという意識・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 予もまた今年の五月の初め、漂然として春まだ浅き北海の客となった一人である。年若く身は痩せて心のままに風と来り風と去る漂遊の児であれば、もとより一攫千金を夢みてきたのではない。予はただこの北海の天地に充満する自由の空気を呼吸せんがために・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ 菊枝は活々とした女になったが、以前から身に添えていた、菊五郎格子の帯揚に入れた写真が一枚、それに朋輩の女から、橘之助の病気見舞を紅筆で書いて寄越したふみとは、その名の菊の枝に結んで、今年は二十。明治三十三年十一月・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ とにかく去年から今年へかけての、種々の遭遇によって、僕はおおいに自分の修業未熟ということを心づかせられた。これによって君が僕をいままでわからずにおった幾部分かを解してくれれば満足である。・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・この一年の後にわれわれがふたたび会しますときには、われわれが何か遺しておって、今年は後世のためにこれだけの金を溜めたというのも結構、今年は後世のためにこれだけの事業をなしたというのも結構、また私の思想を雑誌の一論文に書いて遺したというのも結・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・「あちらの村へ、お菓子を卸しにゆくだ。今年になって、はじめて東京から荷がついたから。」 飴チョコの天使は、この話によって、この辺には、まだところどころ田や、圃に、雪が残っているということを知りました。 村に入ると、木立の上に、小・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
・・・そう言えば、お前さん今年幾歳になったんだっけね?」「九さ、たまらねえじゃねえか、来年はもう三十面下げるんだ。お光さんは今年三だね?」「ええ、よく覚えててね」と女はニッコリする。「そりゃ覚えてなくって!」と男もニッコリしたが、「何・・・ 小栗風葉 「深川女房」
坂田三吉が死んだ。今年の七月、享年七十七歳であった。大阪には異色ある人物は多いが、もはや坂田三吉のような風変りな人物は出ないであろう。奇行、珍癖の横紙破りが多い将棋界でも、坂田は最後の人ではあるまいか。 坂田は無学文盲・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ 昨年の春私を訪ねてきて一泊して行った従兄のKは、十二月に東京で死んで骨になって郷里に帰った。今年の春伯母といっしょにはるばるとやってきて一泊して行った義母は、夏には両眼失明の上に惨めな死方をした。もう一人の従弟のT君はこの春突然やって・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
出典:青空文庫