・・・ 私が再こう念を押すと、田代君は燐寸の火をおもむろにパイプへ移しながら、「さあ、それはあなた自身の御判断に任せるよりほかはありますまい。が、ともかくもこの麻利耶観音には、気味の悪い因縁があるのだそうです。御退屈でなければ、御話します・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・命の総てをおとよさんに任せる。 こういう場合に意志の交換だけで、日を送っていられるくらいならば、交換したことばは偽りに相違ない。抑えられた火が再び燃えたった時は、勢い前に倍するのが常だ。 そのきさらぎの望月の頃に死にたいとだれかの歌・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・しかしながら文学事業にいたっては社会はほとんどわれわれの自由に任せる。それゆえに多くの独立を望む人が政治界を去って宗教界に入り、宗教界を去って教育界に入り、また教育界を去ってついに文学界に入ったことは明かな事実であります。多くのエライ人は文・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・「そうかい、それじゃまあ、どうなりとお光さんの考え通りに任せるから、よろしく頼むよ」 金之助は急須に湯を注したが、茶はもう出流れているので、手を叩いて女中を呼ぶ。 間もなく、「何か御用ですの?」と不作法に縁側の外から用を聞いて、・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・今度だけは娘の意志に任せるほかあるまいと諦めていたのだ。四「俺の避難所はプアだけれど安全なものだ。俺も今こそかの芸術の仮面家どもを千里の遠くに唾棄して、安んじて生命の尊く、人類の運命の大きくして悲しきを想うことができる……」・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・いくら危険を感じていても、滑るに任せ止まるに任せる外はなかったのだった。 飛び下りる心構えをしていた脛はその緊張を弛めた。石垣の下にはコートのローラーが転がされてあった。自分はきょとんとした。 どこかで見ていた人はなかったかと、また・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・「そこはとうさんに任せるよ。」 私は時計を見た。どこの銀行でも店を閉じるという午後の三時までには、まだ時の余裕があった。私はその日のうちに四人の兄妹に分けるだけのものは分け、受け取った金の始末をしてしまいたいと思った。そこは人通りの・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・の怪奇な姿をこわごわ観察している偏屈な老学究の滑稽なる風貌が、さくら音頭の銀座から遠望した本職のジャーナリストの目にいかに映じるかは賢明なる読者の想像に任せるほかはないのである。 寺田寅彦 「ジャーナリズム雑感」
・・・そうして滅亡するか復興するかはただその時の偶然の運命に任せるということにする外はないという棄て鉢の哲学も可能である。 しかし、昆虫はおそらく明日に関する知識はもっていないであろうと思われるのに、人間の科学は人間に未来の知識を授ける。この・・・ 寺田寅彦 「津浪と人間」
・・・もっともこれを忘れているおかげで今日を楽しむことができるのだという人があるかもしれないのであるが、それは個人めいめいの哲学に任せるとして、少なくも一国の為政の枢機に参与する人々だけは、この健忘症に対する診療を常々怠らないようにしてもらいたい・・・ 寺田寅彦 「天災と国防」
出典:青空文庫