西暦一千九百二年秋忘月忘日白旗を寝室の窓に翻えして下宿の婆さんに降を乞うや否や、婆さんは二十貫目の体躯を三階の天辺まで運び上げにかかる、運び上げるというべきを上げにかかると申すは手間のかかるを形容せんためなり、階段を上るこ・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・碌さんは小さな体躯をすぼめて、小股に後から尾いて行く。尾いて行きながら、圭さんの足跡の大きいのに感心している。感心しながら歩行いて行くと、だんだんおくれてしまう。 路は左右に曲折して爪先上りだから、三十分と立たぬうちに、圭さんの影を見失・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ お前はその立派な、見かけの体躯をもって、その大きな轢殺車を曵いていく! 未成年者や児童は安価な搾取材料だ! お前の轢殺車の道に横わるもの一切、農村は蹂られ、都市は破壊され、山野は裸にむしられ、あらゆる赤ん坊はその下敷きとなって・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・ 子福者小笠原伯爵の何番目かの娘さんが最近スポーツマンであった体躯肥大な某氏と結婚された写真が出ていた。月給は七十円だけれども、豪壮な新邸に住まわれるそうである。一寸名のあるスポーツマンになるといいぜ、就職が楽だぜ。そういう功利的通念は・・・ 宮本百合子 「新しい一夫一婦」
・・・何か痛ましい、東洋の不純な都会風の陰翳が、くっきり小さい体躯に写し出されて居るのである。 私は、その雀が、何かに怯えて、一散に屋根へ戻った後、猶二掴三掴の粟を庭に撒いた。明日まだ靄のある暁のうち、彼等の仲間は、安心して此処におり、彼那に・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・ ききなれたそれは福島辺の訛なので、私はぼんやりした好意をその体躯堂々たる農夫に対して感じた。彼が土を掘ってこそいるが、或る精神力のようなものをも持っていて、世界のいろいろな出来事に興味を感じ、その興味を裏づけるに必要な知識を、若い大学・・・ 宮本百合子 「北へ行く」
・・・ 健全な体躯と、明快な理智と、馴練された感情は、光栄な何等かの理想を彼女の魂の裡に植えつけます。そして、緻密な理論的考察と、自由な心の持つ新鮮な覇気とは、アメリカを毒す、余りに群衆的な輿論から毅然として、彼女の道をよき改革へ進めますでし・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・五年の間、自分達は、その、がっしりとした体躯の、色の黒い女教師の下に育てられて来たのだ。大抵の者は、もう人の妻となり、或は親となっていても、彼女の眼を見ると、皆、仲間同士の正直な、打明けた表情は圧せられてしまう。堅くなり、他人行儀になり、生・・・ 宮本百合子 「追想」
・・・ 大層すらりと均整の整った体躯、睫の長い、力ある大きな二つの眼、ゆっくりとつくろわず結ねられている髪や衣服のつけ方などが、先ず外形的に、一種の快さを与えた。 最初の一瞥で、何とも云えず感じの深い而も充分威に満ちた先生の為人を感じた私・・・ 宮本百合子 「弟子の心」
市が立つ日であった。近在近郷の百姓は四方からゴーデルヴィルの町へと集まって来た。一歩ごとに体躯を前に傾けて男はのそのそと歩む、その長い脚はかねての遅鈍な、骨の折れる百姓仕事のためにねじれて形をなしていない。それは鋤に寄りかかる癖がある・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
出典:青空文庫