・・・ むかし新聞屋をしていた頃、さんざ他人の攻撃をして来た自分が、こんどは他人より手ひどく攻撃されるという、廻合せの皮肉さに、すこしは苦笑する余裕があっても良かりそうなものだのに、お前はそんな余裕は耳掻きですくう程も無く、すっかり逆上してし・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・あわてて、酔払って、二三の友人から追いたてられるようにして送られてきた彼には、それを訊ねている余裕もなかったのだ。で結局、今朝の九時に上野を発ってくる奥羽線廻りの青森行を待合せて、退屈なばかな時間を過さねばならぬことになったのだ。 が、・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・]心を休める余裕や安らかな望みのない私の村の風景がいつか私の身についてしまっていることを私は知った。そして三日の後私はまた私の心を封じるために私の村へ帰って来たのである。 3 私は何日も悪くなった身体を寝床につけてい・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・なんで余裕があろう。小学校の教員はすべからく焼塩か何にかで三度のめしを食い、以て教場に於ては国家の干城たる軍人を崇拝すべく七歳より十三四歳までの児童に教訓せよと時代は命令しているのである。 唯々として自分はこの命令を奉じていた。 然・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・彼がこの小松原の法難における吉隆と鏡忍との殉教を如何に尊び、感謝しているかは、彼の消息を見れば、輝くほどの霊文となって現われているのであるが、ここに引用する余裕がない。後に書くが日蓮はまれに見る名文家なのである。 この法難から文永五年蒙・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 兵卒は、誰れの手先に使われているか、何故こんな馬鹿馬鹿しいことをしなければならないか、そんなことは、思い出す余裕なしに遮二無二に、相手を突き殺したり殺されたりするのだ。彼等は殺気立ち、無鉄砲になり、無い力まで出して、自分達に勝味が出来・・・ 黒島伝治 「戦争について」
・・・そしてまたこの家の主人に対して先輩たる情愛と貫禄とをもって臨んでいる綽々として余裕ある態度は、いかにもここの細君をしてその来訪を需めさせただけのことは有る。これに対座している主人は痩形小づくりというほどでも無いが対手が対手だけに、まだ幅が足・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・裏の木戸口から物置の方へ通う空地は台所の前にもいくらかの余裕を見せ、冷々とした秋の空気がそこへも通って来ていた。おげんはその台所に居ながらでも朝顔の枯葉の黄ばみ残った隣家の垣根や、一方に続いた二階の屋根などを見ることが出来た。「おさださ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・もう三十分しか余裕が無い。私は万策尽きた気持で、襖をへだてた小坂家の控室に顔を出した。「ちょっと手違いがありまして、大隅君のモオニングが間に合わなくなりまして。」私は、少し嘘を言った。「はあ、」小坂吉之助氏は平気である。「よろしゅう・・・ 太宰治 「佳日」
・・・ただ一心に何事かに凝り固まって世間の風が何処を吹くのも知る余裕がないといったようである。自分はこんな場合を見かけるとなんだか可笑しくもありまた気の毒な気がした。黒田はあれはこの世界に金を溜める以外何物もない憐れな男だと言っていた。五厘だけ安・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
出典:青空文庫