・・・けれども、その出版の仕事も、紙の買入れ方をしくじったとかで、かなりの欠損になり、夫も多額の借金を背負い、その後仕末のために、ぼんやり毎日、家を出て、夕方くたびれ切ったような姿で帰宅し、以前から無口のお方でありましたが、その頃からいっそう、む・・・ 太宰治 「おさん」
・・・ 書店にはなるべく借金をたくさんにこしらえるほうがいいという話を聞いて感心したことがある。正直に月々ちゃんと払いをすませるような顧客は、考えてみると本屋でもてなくてもよいわけであった。それでバックナンバーでも注文する時はその前に少なくも・・・ 寺田寅彦 「読書の今昔」
・・・ うっかりしている間に学年試験が目の前に来ていたり、借金の返済期限がさし迫っていたりする。 眠っているような植物の細胞の内部に、ひそかにしかし確実に進行している春の準備を考えるとなんだか恐ろしいような気もする。 ・・・ 寺田寅彦 「春六題」
・・・「ここに借金かね」「借金といっては別にあるわけもないけれど……」お絹は微笑した。「とにかくここを続けようというんだね」「先きのことはわからないけれど、お婆さんのいるうちはね」「お婆さんは庄ちゃんがみればいいじゃないか」・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・朝寝が好きで、髪を直すに時間を惜しまず、男を相手に卑陋な冗談をいって夜ふかしをするのが好きであるが、その割には世帯持がよく、借金のいい訳がなかなか巧い。年は二十五、六、この社会の女にしか見られないその浅黒い顔の色の、妙に滑っこく磨き込まれて・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・両人は蒼くなって、あまり跳ね過ぎたなと勘づいたが、これより以後跳方を倹約しても金剛石が出る訳でもないので、やむをえず夫婦相談の結果、無理算段の借金をした上、巴里中かけ廻ってようやく、借用品と一対とも見違えられる首飾を手に入れて、時を違えず先・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・そこでもって家賃が滞る――倫敦の家賃は高い――借金ができる、寄宿生の中に熱病が流行る。一人退校する、二人退校する、しまいに閉校する。……運命が逆まに回転するとこう行くものだ。可憐なる彼ら――可憐は取消そう二人とも可憐という柄ではない――エー・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・ナニ耳のそばで誰やら話ししかけるようだ、何かいう事ないか、いう事ないでもない 借金の事どうかお頼み申すヨ、それきりか、僕は饅頭が好きだから死んだらなるべく沢山盛って供えてもらいたい、それは承知したが辞世はないか、それサ辞世の歌一首詠もうと思・・・ 正岡子規 「墓」
・・・協力は時に全く前掛けのあることと、竈のあることと、借金のあることを忘れることにあらわれる。そうかと思えば、猛烈にその借金を返すことに努力し、自分たちの生活破壊から自分たちをまもるために協力が発揮されることもある。協力は笑う、協力は最も清潔に・・・ 宮本百合子 「明日をつくる力」
・・・十二年前、二人の娘とカルタで負けた借金をのこして良人が死んだ後、子供を育て、借金をかえし、現在ではパリで有名な衣裳店を開いている美しい中年の寡婦ジェニファーが、或る貴族の園遊会でコルベット卿にめぐり会い、その偶然が二人を愛へ導いて結婚するこ・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
出典:青空文庫