・・・僕たちが若竹へ通った時分だって、よしんば語り物は知らなかろうが、先方は日本人で、芸名昇菊くらいな事は心得ていたもんだ。――そう云って、僕がからかったら、お徳の奴、むきになって、「そりゃ私だって、知りたかったんです。だけど、わからないんだから・・・ 芥川竜之介 「片恋」
・・・何しろ先方でもいつのまにか、水晶の双魚の扇墜が、枕もとにあったと云うのだから、――」 趙生はこう遇う人毎に、王生の話を吹聴した。最後にその話が伝わったのは、銭塘の文人瞿祐である。瞿祐はすぐにこの話から、美しい渭塘奇遇記を書いた。……・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・こちらから快活に持ちかけて、冗談話か何かで先方の気分をやわらがせるというようなタクトは彼には微塵もなかった。親しい間のものが気まずくなったほど気まずいものはない。彼はほとんど悒鬱といってもいいような不愉快な気持ちに沈んで行った。おまけに二人・・・ 有島武郎 「親子」
・・・そうして堂脇さんとやらが、美しいお嬢さんをもらってくださいって、先方から頭をさげてくるかもしれないわ。けれどもあんまり浮気をしちゃいけなくってよ。瀬古さん……あなた若様ね。きさくで親切で、顔つきだっていちばん上品できれいだし、お友達にはうっ・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・ と女中は思入たっぷりの取次を、ちっとも先方気が着かずで、つい通りの返事をされたもどかしさに、声で威して甲走る。 吃驚して、ひょいと顔を上げると、横合から硝子窓へ照々と当る日が、片頬へかっと射したので、ぱちぱちと瞬いた。「そんな・・・ 泉鏡花 「縁結び」
・・・本屋じゃ幾干に買うか知れないけれど、差当り、その物理書というのを求めなさる、ね、それだけ此処にあれば可い訳だ、と先ず言った訳だ。先方の買直がぎりぎりの処なら買戻すとする。……高く買っていたら破談にするだ、ね。何しろ、ここは一ツ、私に立替えさ・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・然るに先方は既に一家を成した大家であるに、ワザワザ遠方を夜更けてから、挨拶に来られたというは礼を尽した仕方で、誠に痛み入って窃に赤面した。 早速社へ宛てて、今送った原稿の掲載中止を葉書で書き送ってその晩は寝ると、翌る朝の九時頃には鴎外か・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ちょうどそのやさきへ、あるしんせつな老人がありまして、そのおじいさんはふだん龍雄をかわいがっていましたが、「私の知った町の糸屋で、小僧が欲しいということだから、龍雄をやったらどうだ、先方はみなしんせつな人たちばかりだ。なんなら私から頼ん・・・ 小川未明 「海へ」
・・・ 両親は、けっして、相手を疑いませんでした。先方が、金持ちで、なに不自由なく、そして、娘をかわいがってさえくれればいいと思っていましたので、先方がそんなにいいとこであるなら、娘もしあわせだからというので、ついやる気になりました。 た・・・ 小川未明 「海ぼたる」
・・・そこで屋台店の亭主から、この町で最も忙しい商店の名を聞いて、それへ行って小僧でも下男でもいいから使ってくれと頼んだ。先方はむろん断った。いろいろ窮状を談して執念く頼んでみたが、旅の者ではあり、なおさら身元の引受人がなくてはときっぱり断られて・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫