・・・ 彼はこう言う光景を見た時、ほとんど彼の目を信じなかった。が、両手にさわって見ると、実際両脚とも、腿から下は空気を掴むのと同じことである。半三郎はとうとう尻もちをついた。同時にまた脚は――と言うよりもズボンはちょうどゴム風船のしなびたように・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・――こんな光景も一瞬間、はっきり眼の前に見えるような気がした。「今日届けば、あしたは帰りますよ。」 洋一はいつか叔母よりも、彼自身に気休めを云い聞かせていた。 そこへちょうど店の神山が、汗ばんだ額を光らせながら、足音を偸むように・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・それはこの小屋の前では見慣れない光景だった。川森は仁右衛門が眼を覚ましたのを見ると、「早う内さ行くべし。汝が嬰子はおっ死ぬべえぞ。赤痢さとッつかれただ」といった。他愛のない夢から一足飛びにこの恐ろしい現実に呼びさまされた彼れの心は、・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・クララはこの光景を窓から見おろすと、夢の中にありながら、これは前に一度目撃した事があるのにと思っていた。 そう思うと、同時に窓の下の出来事はずんずんクララの思う通りにはかどって行った。夏には夏の我れを待て。春には春の我れ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 世に茫然という色があるなら、四辺の光景は正しくそれ。月もなく、日もなく、樹もなく、草もなく、路もない、雲に似て踏みごたえがあって、雪に似て冷からず、朧夜かと思えば暗く、東雲かと見れば陰々たる中に、煙草盆、枕、火鉢、炬燵櫓の形など左右、・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ その癖、傍で視ると、渠が目に彩り、心に映した――あのろうたけた娘の姿を、そのまま取出して、巨石の床に据えた処は、松並木へ店を開いて、藤娘の絵を売るか、普賢菩薩の勧進をするような光景であった。 渠は、空に恍惚と瞳を据えた。が、余りに・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・目のさきからじきに山すそに連続した、三、四里もある草木あるいは石の原などをひと目に見わたすと、すべての光景がどうしてもまぼろしのごとく感ずる。 予はふかくこの夢幻の感じに酔うて、河口湖畔の舟津へいでた。舟津の家なみや人のゆききや、馬のゆ・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・ 省作はそのおもしろい光景にわれを忘れて見とれている。鎌をとぐ手はただ器械的に動いてるらしい。おはまは真に苦も荷もない声で小唄をうたいつつ台所に働いている。兄夫婦や満蔵はほとんど、活きた器械のごとく、秩序正しく動いている。省作の目には、・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ この光景を見たさよ子は、なんとなく悲しくなりました。そして家へ帰る路すがら、自分もいつかお父さんや、お母さんに別れなければならぬ日があるのであろうと思いました。四 あいかわらず、その後も、町の方からは聞き慣れたよい音色・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・ いつも快活で、そして、また独りぼっちに自分を感じた年子は、しばらく、柔らかな腰掛けにからだを投げて、うっとりと、波立ちかがやきつつある光景に見とれて、夢心地でいました。「このはなやかさが、いつまでつづくであろう。もう、あと二時間、・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
出典:青空文庫