・・・今は入り日さえ窓の外に全然光と言う感じのしない、濁った朱の色を漂わせている。半三郎の脚はその間も勿論静かにしている訣ではない。細引にぐるぐる括られたまま、目に見えぬペダルを踏むようにやはり絶えず動いている。常子は夫を劬わるように、また夫を励・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・あの犬は入り日の光の中に反対の方角へ顔を向けたまま、一匹のようにじっとしていた。のみならず妙に厳粛だった。死と云うものもあの二匹の犬と何か似た所を持っているのかも知れない。…… するとある火ともし頃である。保吉は役所から帰った父と、薄暗・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・着物を雨で濡らす心配があるか、ライン河の入日の画端書に感嘆の声を洩らす時のほかは、滅多に雲の影などへ心を止めないのも不思議ではない。いわんや今は薔薇の花の咲き乱れている路に、養殖真珠の指環だの翡翠まがいの帯止めだのが――以下は前に書いた通り・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・ すると突然幻は誰も見たことのない獣を一匹、入り日の光の中に現じ出した。獣は獅子に似て翼を拡げ、頭を二つ具えていた。しかもその頭の一つはシバの女王の頭であり、もう一つは彼自身の頭だった。頭は二つとも噛み合いながら、不思議にも涙を流してい・・・ 芥川竜之介 「三つのなぜ」
青黄ろく澄み渡った夕空の地平近い所に、一つ浮いた旗雲には、入り日の桃色が静かに照り映えていた。山の手町の秋のはじめ。 ひた急ぎに急ぐ彼には、往来を飛びまわる子供たちの群れが小うるさかった。夕餉前のわずかな時間を惜しんで・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・「まァ民さん、御覧なさい、入日の立派なこと」 民子はいつしか笊を下へ置き、両手を鼻の先に合せて太陽を拝んでいる。西の方の空は一体に薄紫にぼかした様な色になった。ひた赤く赤いばかりで光線の出ない太陽が今その半分を山に埋めかけた処、僕は・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・そして、晩方など、入り日の紅くさしこむ窓の下で、お姉さまがピアノをお弾きなさるとき、露子は、じっとそのそばにたたずんで、いちいち手の動くのから、日の光がピアノに当たって反射しているのから、なにからなにまで見落とすことがなく、また歌いなされる・・・ 小川未明 「赤い船」
・・・ そして、海の面が入り日の炎に彩られて、静かに暮れていった時分に、彼は町の方へ帰ってゆきました。 ある果物屋の前で、ふたたび昨日の美しい女の人に出あいました。 彼は思わず顔を赤らめて、その人を見送りますと、「このごろ、港には・・・ 小川未明 「赤い船のお客」
・・・そして、真っ赤に、入り日の名残の地平線を染めていますのが、しだいしだいに、波に洗われるように、うすれていったのでありました。 おじいさんは、ほとんど、毎日のようにここにきて、同じ石の上に腰を下ろしました。そして、沖の暮れ方の景色に見とれ・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・海辺までくると、雪も少なく、沖の方を見れば、もう入り日の名残も消えてしまって、暗いうちに波の打つ音が、ド、ドー、と鳴っているばかりであった。ちょうど、そのとき、あちらに人間が五、六人、雪の上に火を焚いて、なにやら話をしているようだった。・・・ 小川未明 「大きなかに」
出典:青空文庫