・・・「おい、八重ちゃん……」 と、豹吉は店の女の子を呼んで「――この子供らに、メニューにあるだけのもン、何でも食わせてやってくれ」 どうやら靴磨きの少年達に御馳走することには、反対らしいお加代への面当てに、わざとそう言った。「何・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ 宿へ帰ったら女中の八重が室の掃除をしていた。「熊公の御家はつぶれて仕舞ったよ」と云ったら、寝衣を畳みながら「マア可哀相にあの人も御かみさんの居た頃はあんなでもなかったんですけれど」と何か身につまされでもしたようにしみじみと云った。自・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・斎藤月岑の東都歳事記に挙ぐるものを見れば、谷中日暮里の養福寺、経王寺、大行寺、長久院、西光寺等には枝垂桜があり、根津の社内、谷中天王寺と瑞輪寺には名高い八重咲の桜があったと云う。 一昨年の春わたくしは森春濤の墓を掃いに日暮里の経王寺に赴・・・ 永井荷風 「上野」
・・・襖のあく音に、わたくしは筆を手にしたままその方を見ると、その頃家にいた八重という女が茶と菓子とを好みの器に入れて持ち運んで来たのである。何やかやとはなしをしている中に、鐘の音が聞える。遠い目白台の鐘である。わたくしはその辺にちらかした古本を・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・ 八重の心持 ○この人が来たので八重、家のことをちっとも仕ないでよいようになった。が、其は勿論よろこびではない。老人達が自分をたよりにしてくれないことの淋しさ。しかしいざとなれば、やっぱり彼等の世話をするのは、自分だ・・・ 宮本百合子 「一九二五年より一九二七年一月まで」
出典:青空文庫