・・・内儀さんは座敷の方に運ぶ膳のものが冷えるのを気にして、椀のものをまたもとの鍋にかえしたりしていた。彼がそこに出て行くと、見る見るそこの一座の態度が変わって、いやな不自然さがみなぎってしまった。小作人たちはあわてて立ち上がるなり、草鞋のままの・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 鐘の音も聞えない。 潟、この湖の幅の最も広く、山の形の最も遠いあたりに、ただ一つ黒い点が浮いて見える。船か雁か、※かいつぶりか、ふとそれが月影に浮ぶお澄の、眉の下の黒子に似ていた。 冷える、冷い……女に遁げられた男はすぐに一す・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
瑠璃色に澄んだ中空の樹の間から、竜が円い口を張開いたような、釣鐘の影の裡で、密と、美麗な婦の――人妻の――写真を視た時に、樹島は血が冷えるように悚然とした。…… 山の根から湧いて流るる、ちょろちょろ水が、ちょうどここで・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・それが年ごろになっても止まぬので、無口な父親もさすがに冷えるぜエと、たしなめたが、聴かなんだ。 蝸牛を掌にのせ、腕を這わせ、肩から胸へ、じめじめとした感触を愉しんだ。 また、銭湯で水を浴びるのを好んだ。湯気のふきでている裸にざあッと・・・ 織田作之助 「雨」
・・・「……室が冷えるからだめ。――一度開けると薪三本分損するの。」 彼女は、桜色の皮膚を持っていた。笑いかけると、左右の頬に、子供のような笑窪が出来た。彼女は悪い女ではなかった。だが、自分に出来ることをして金を取らねばならなかった。親も・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・「――冷えるぜ」「どうせねえ」そして、すすめるとまた「いいの」と言った。「変だな」彼はそう言って、むりに女に敷かせた。「どうして兄さん敷かないの」座ってからも女はちょっと落着かないように、モジモジした。それから「じゃ、敷くわ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・一時に氷が増してよく冷えると見えて、少し心が落付いたが、次第に昇る熱のために、纏まった意識の力は弱くなり、それにつれて恐ろしい熱病の幻像はもう眼の前に押寄せて来る。いつの間にか自分と云うものが二人に別れる。二人ではあるがどちらも自分である。・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・赤熱した岩片が落下して表面は急激に冷えるが内部は急には冷えない、それが徐々に冷える間は、岩質中に含まれたガス体が外部の圧力の減った結果として次第に泡沫となって遊離して来る、従って内部が次第に海綿状に粗鬆になると同時に膨張して外側の固結した皮・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・ 次に、茶わんのお湯がだんだんに冷えるのは、湯の表面の茶わんの周囲から熱が逃げるためだと思っていいのです。もし表面にちゃんとふたでもしておけば、冷やされるのはおもにまわりの茶わんにふれた部分だけになります。そうなると、茶わんに接したとこ・・・ 寺田寅彦 「茶わんの湯」
・・・ たとえば、これもやはり私の洗面台の問題の一つであるが、前夜にたてた風呂の蒸気が室にこもっているところへ、夜間外気が冷えるのと戸外への輻射とのために、窓のガラスに一面に水滴を凝結させる。冬の酷寒には水滴の代わりに美しい羽毛状の氷の結晶模・・・ 寺田寅彦 「日常身辺の物理的諸問題」
出典:青空文庫