・・・が、彼の恋愛は全然冷え切っていないのかも知れない。さもなければ彼はとうの昔に博物館の外を歩いていたのであろう。もっとも情熱は失ったにもせよ、欲望は残っているはずである。欲望?――しかし欲望ではない。彼は今になって見ると、確かに三重子を愛して・・・ 芥川竜之介 「早春」
・・・夕冷えのする京都は、もう火桶が欲しいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗の柱にとまっていた蟋蟀も、もうどこかへ行ってしまった。 下人は、頸をちぢめながら、山吹の汗袗に重ねた、紺の襖の肩を高くして・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・一杯機嫌になったらしい小作人たちが挨拶を残して思い思いに帰ってゆく気配が事務所の方でしていた。冷え切った山の中の秋の夜の静まり返った空気の中を、その人たちの跫音がだんだん遠ざかって行った。熱心に帳簿のページを繰っている父の姿を見守りながら、・・・ 有島武郎 「親子」
・・・油汗の沁み出た両手は氷のように冷えて、青年を押もどそうにも、迎え抱こうにも、力を失って垂れ下った。肉体はややともすると後ろに引き倒されそうになりながら、心は遮二無二前の方に押し進もうとした。 クララは半分気を失いながらもこの恐ろしい魔術・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・よく冷えてら。堪らねえや。だが、あれだよ、皆、渡してある小遣で各々持だよ――西瓜が好かったらこみで行きねえ、中は赤いぜ、うけ合だ。……えヘッヘッ。」 きゃあらきゃあらと若い奴、蜩の化けた声を出す。「真桑、李を噛るなら、あとで塩湯を飲・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・「おお、冷え、本降、本降。」 と高調子で門を入ったのが、此処に差向ったこの、平吉の平さんであった。 傘をがさりと掛けて、提灯をふっと消す、と蝋燭の匂が立って、家中仏壇の薫がした。「呀! 世話場だね、どうなすった、父さん。お祖・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・父は冷えたわが子を素肌に押し当て、聞き覚えのおぼつかなき人工呼吸を必死と試みた。少しもしるしはない。見込みのあるものやら無いものやら、ただわくわくするのみである。こういううち、医者はどうして来ないかと叫ぶ。あおむけに寝かして心臓音を聞いてみ・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・働いたのは島の海女で、激浪のなかを潜っては屍体を引き揚げ、大きな焚火を焚いてそばで冷え凍えた水兵の身体を自分らの肌で温めたのだ。大部分の水兵は溺死した。その溺死体の爪は残酷なことにはみな剥がれていたという。 それは岩へ掻きついては波に持・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・ そんな溪の水で冷え切った身体は岩間の温泉で温める。馬にさえ「馬の温泉」というものがある。田植で泥塗れになった動物がピカピカに光って街道を帰ってゆく。それからまた晩秋の自然薯掘り。夕方山から土に塗れて帰って来る彼らを見るがよい。背に二貫三貫・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・次にふわりとした暖かい空気が冷え切った顔にここちよく触れました。これはさかんにストーブがたいてあるからです。次に婦人席が目につきました。毛は肩にたれて、まっ白な花をさした少女やそのほか、なんとなく気恥ずかしくってよくは見えませんでした、ただ・・・ 国木田独歩 「あの時分」
出典:青空文庫