・・・――王妃の顔は屍を抱くが如く冷たい。アーサーは覚えず抑えたる手を放す。折から廻廊を遠く人の踏む音がして、罵る如き幾多の声は次第にアーサーの室に逼る。 入口に掛けたる厚き幕は総に絞らず。長く垂れて床をかくす。かの足音の戸の近くしばらくとま・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・その上僕の風変りな性格が、小学生時代から仲間の子供とちがって居たので、学校では一人だけ除け物にされ、いつも周囲から冷たい敵意で憎まれて居た。学校時代のことを考えると、今でも寒々とした悪感が走るほどである。その頃の生徒や教師に対して、一人一人・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・僅に、滅茶苦茶に涙を流しながら、引き起そうとする子供の力だけ、その冷たい首を上げるだけであった。 それでも、子供たちは、その小さな心臓がハチ切れるように、喘いでいるのにその屍体を起すことにかかっていた。若し、飯場の人たちが、親も子も帰ら・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・その左の方を脱いで、冷たいのも感ぜぬらしく、素足を石畳の上に載せた。それから靴の中底を引き出した。それから靴の踵に填めてある、きたない綿を引き出した。綿には何やらくるんである。それを左の手に持って、爺いさんは靴を穿いた。そして身を起した。・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・そこはまア、自然かも知れんね――日蔭の冷たい、死というものに掴まれそうになってる人間が、日向の明るい、生気溌溂たる陽気な所を求めて、得られんで煩悶している。すると、議論じゃ一向始末におえない奴が、浅墓じゃあるが、具体的に一寸眼前に現て来てい・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・この盃の冷たい縁には幾度か快楽の唇が夢現の境に触れた事であろう。この古い琴の音色には幾度か人の胸に密やかな漣が起った事であろう。この道具のどれかが己をそういう目に遇わせてくれたなら、どんなにか有難く思ったろうに。この木彫や金彫の様々な図は、・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・○くだものと香 熱帯の菓物は熱帯臭くて、寒国の菓物は冷たい匂いがする。しかし菓物の香気として昔から特に賞するのは柑類である。殊にこの香ばしい涼しい匂いは酸液から来る匂いであるから、酸味の強いものほど香気が高い。柚橙の如きはこれである。そ・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・四月九日〔以下空白〕一千九百廿五年五月五日 晴まだ朝の風は冷たいけれども学校へ上り口の公園の桜は咲いた。けれどもぼくは桜の花はあんまり好きでない。朝日にすかされたのを木の下から見ると何だか蛙の卵のような気がす・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 母親の繰言に合の手を打ってビシャビシャビシャビシャ冷たい雨だれの音が四辺に響いている。一太は、ビシャビシャいう雨だれも、母親の怨み言もきらいであった。雨が降れば、きっと根本まで腐りそうなその雨だれの音と、一太によく訳の分らない昔のよか・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ただ暖かい野の朝、雲雀が飛び立って鳴くように、冷たい草叢の夕、こおろぎが忍びやかに鳴く様に、ここへ来てハルロオと呼ぶのである。しかし木精の答えてくれるのが嬉しい。木精に答えて貰うために呼ぶのではない。呼べば答えるのが当り前である。日の明るく・・・ 森鴎外 「木精」
出典:青空文庫