・・・自分はその時までも、肌に抱き締めあたためていた子どもを、始めて蒲団の上へはなした。冷然たる医者は一、二語簡単な挨拶をしながら診察にかかった。しかし診察は無造作であった。聴診器を三、四か所胸にあてがってみた後、瞳を見、眼瞼を見、それから形ばか・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・お繁さんは兄の冷然たる顔色に落胆した風で、兄さんは結婚してからもう駄目よと叫んだ。岡村は何に生意気なことをと目に角立てる。予は突然大笑して其いざこざを消した。そうして話を他へ転じた。お繁さんは本意なさそうにもう帰りましょうと云い出して帰る。・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ 女はグイとまた仰飲って、冷然として云い放った。「何が何でもわたしゃアいいよ、首になっても列ぼうわね。 面は火のように、眼は耀くように見えながら涙はぽろりと膝に落ちたり。男は臂を伸してその頸にかけ、我を忘れたるごとく抱き締めつ、・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・集金に行ってコップ酒を無理強いにするトラック屋の親爺などに逢えば面白いが、机の前に冷然としている、どじょう髭の御役人に向って、『今日は、御用はありませんか。』『ない。』『へい、ではまたどうぞ。』とか、『商人は外で待ってろ。』とか、『一厘』の・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・節子、冷然と坐ったままでいたのであるが、ふと、膝元の白い角封筒に眼をとめ、取りあげて立ち、縁側に出てはきものを捜し、野中のサンダルをつっかけ、無言で皆のあとを追う。――舞台、廻る。 第三場舞台は、月下・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・数枝は、冷然たり。 お前ひとりのために、お前ひとりのために、この家が、お前ひとりのために、どれだけ、(何か呟数枝、睦子を抱いたまま静かに立って、奥の階段のほうへ行く。待て!まあ、お父さん、何をなさる。・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・地獄の門をさえ冷然とくぐったダンテもこの扉については、語るを避けた。余談 ここには、「鴎外と漱石」という題にて、鴎外の作品、なかなか正当に評価せられざるに反し、俗中の俗、夏目漱石の全集、いよいよ華やかなる世情、涙出ずるほどく・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・しかしながら彼ら学者にはすべてを統一したいという念が強いために、出来得る限り何でもかでも統一しようとあせる結果、また学者の常態として冷然たる傍観者の地位に立つ場合が多いため、ただ形式だけの統一で中味の統一にも何にもならない纏め方をして得意に・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・そうしてその中に冷然と二十世紀を軽蔑するように立っているのが倫敦塔である。汽車も走れ、電車も走れ、いやしくも歴史の有らん限りは我のみはかくてあるべしと云わぬばかりに立っている。その偉大なるには今さらのように驚かれた。この建築を俗に塔と称えて・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・(死は冷然として取り合わぬ様子ゆえ、主人は次第に恐を抱どうぞどうぞ思い返して見てくれい。お前は己が愛をも憎をも閲して来たように思うであろうが、己はただの一度もその味を真から嘗めた事がない。つい表面の見えや様子や、空々しい詞を交して来たばかり・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫