・・・おれはもう今夜限り、お前を見捨てようと思っている。いや、その上に悪事の罰を下してやろうと思っている」 婆さんは呆気にとられたのでしょう。暫くは何とも答えずに、喘ぐような声ばかり立てていました。が、妙子は婆さんに頓着せず、おごそかに話し続・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・私の顔が見えると妹は後の方からあらん限りの声をしぼって「兄さん来てよ……もう沈む……苦しい」 と呼びかけるのです。実際妹は鼻の所位まで水に沈みながら声を出そうとするのですから、その度ごとに水を呑むと見えて真蒼な苦しそうな顔をして私を・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・人は誰でも、その時が過ぎてしまえば間もなく忘れるような、乃至は長く忘れずにいるにしても、それを言い出すには余り接穂がなくてとうとう一生言い出さずにしまうというような、内から外からの数限りなき感じを、後から後からと常に経験している。多くの人は・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ 目を上げて見ると、見渡す限り、山はその戸帳のような色になった。が、やや艶やかに見えたのは雨が晴れた薄月の影である。 遠くで梟が啼いた。 謙造は、その声に、額堂の絵を思出した、けれども、自分で頭をふって、斉しく莞爾した。 そ・・・ 泉鏡花 「縁結び」
・・・豪雨だ……そのすさまじき豪雨の音、そうしてあらゆる方面に落ち激つ水の音、ひたすら事なかれと祈る人の心を、有る限りの音声をもって脅すかのごとく、豪雨は夜を徹して鳴り通した。 少しも眠れなかったごとく思われたけれど、一睡の夢の間にも、豪雨の・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ いずれにしても、僕の耽溺した状態から遊離した心が理屈を捏ねるに過ぎないのであって、僕自身の現在の窮境と神経過敏とは、生命のある限り、どこまでもつき纏って来るかのように痛ましく思われた。 筆を改めた二日目に原稿を書き終って、これを某・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・今の道徳からいったら人情本の常套の団円たる妻妾の三曲合奏というような歓楽は顰蹙すべき沙汰の限りだが、江戸時代には富豪の家庭の美くしい理想であったのだ。 が、諸藩の勤番の田舎侍やお江戸見物の杢十田五作の買妓にはこの江戸情調が欠けていたので・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・残忍という事もどれ程人間というものが残忍であり得るか、残忍の限りを盟した時、眼を掩ってそれ以上の残忍は為し得ないという時そこに本当の人間性はあり得る。 私は如何なる場合にも中途半端の虚偽を憎む。現代の多くの人々はこの中途半端に居る。しか・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・お光さん、どうか悪く思わねえでね、これはこの場限り水に流しておくんなよ」「どうもお前さんが、そう捌けて言っておくれだと、私はなおと済まないようで……」「何がお光さんに済まねえことがあるものか、済まねえのは俺よ。だが、そんなことはまあ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・と見れば、豆板屋、金米糖、ぶっ切り飴もガラスの蓋の下にはいっており、その隣は鯛焼屋、尻尾まで餡がはいっている焼きたてで、新聞紙に包んでも持てぬくらい熱い。そして、粘土細工、積木細工、絵草紙、メンコ、びいどろのおはじき、花火、河豚の提灯、奥州・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫