・・・それが、滑ったことを書かねばいられないという気持か、小説を書くことによってこの自己を語らないではいられないという気持か、自分には判然しなかった。おそらくはその両方を思っていたのだった。 帰って鞄を開けて見たら、どこから入ったのか、入・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・なるほど、ちょっと見ると何物とも判然しないが、しきりに海を游ぐ者がある。見ているうちに小舟が一艘、磯を離れたと思うと、舟から一発打ち出す銃音に、游いでいた者が見えなくなった。しばらくして小舟が磯に還った。『今のは太そうな奴だな、フン、う・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・殊に又ぞろ母からの無理な申込で頭を痛めた故か、その夜は寝ぐるしく、怪しい夢ばかり見て我ながら眠っているのか、覚めているのか判然ぬ位であった。 何か物音が為たと思うと眼が覚めた。さては盗賊と半ば身体を起してきょろきょろと四辺を見廻したが、・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・はあるのである。いわゆる「出」は判然しているので、御所望ならば御明かし申して宜しいのです。ハハハ。 これは二百年近く古い書に見えている談である。京都は堀川に金八という聞えた道具屋があった。この金八が若い時の事で、親父にも仕込まれ、自分も・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・古来一流の作家のものは作因が判然していて、その実感が強く、従ってそこに或る動かし難い自信を持っている。その反対に今の新人はその基本作因に自信がなく、ぐらついている、というお言葉は、まさに頂門の一針にて、的確なものと思いました。自信を、持ちた・・・ 太宰治 「自信の無さ」
・・・すると、その言葉が何か魔除けの呪文ででもあったかのように、塀の上の目鼻も判然としない杓文字に似た小さい顔が、すっと消えた。跡には、ゆすら梅が白く咲いていた。 私は、恐怖よりも、侮辱を感じた。ばかにしてやがる、と思った。本来の私ならば、こ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・しかしまだ雌雄の区別が素人目にはどうも判然としない。よく見るとしっぽに近い背面の羽色に濃い黒みがかった縞の見えるのが雄らしく思われるだけである。あひるの場合でもやはりいわゆる年ごろにならないと、雌雄の差による内分泌の分化が起こらないために、・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・もっともこの記録では、当時これが現存したものか、あるいは過去の事として書いたものか、あまり判然とはしない。そしてとにかくわれわれの現時はないと言われている。自分の幼時にこの事を話した老人は現に自分でこれを体験したかのごとく話したが、それは疑・・・ 寺田寅彦 「怪異考」
・・・ かつて深川座のあった処は、震災後道路が一変しているので、今は活動館のあるあたりか、あるいは公設市場のあるあたりであるのか、たまたま散歩するわたくしには判然しない。 むかしの黒江橋は今の黒亀橋のあるあたりであろう。即ちむかし閻魔・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・しかもそれは冬の日の暮れかかった時で、目に入るものは蒼茫たる暮烟につつまれて判然としていなかったのも、印象の深かった所以であろう。 或日わたくしは洲崎から木場を歩みつくして、十間川にかかった新しい橋をわたった。橋の欄には豊砂橋としてあっ・・・ 永井荷風 「元八まん」
出典:青空文庫