・・・「じゃ別段その女は人を嚇かす気で来ていたんじゃないの?」「ええ、ただ毎晩十二時前後にながらみ取りの墓の前へ来ちゃ、ぼんやり立っていただけなんです。」 Nさんの話はこう言う海辺にいかにもふさわしい喜劇だった。が、誰も笑うものはなか・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・そう云われて見れば、成程一年ばかりの間に、いくら『愛のある結婚』をしたからと云って、急に彼の性情が変化する筈もないと思いましたから、それぎり私も別段気にとめないで、『じゃ光線のせいで顔色がよくないように見えたのだろう』と、笑って済ませてしま・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・そんな点で多少のクラデルなんぞを想起させる所もありますが、勿論全体としては別段似てもいません。 こう云う特質に冷淡な人は、久米の作品を読んでも、一向面白くないでしょう。しかしこの特質は、決してそこいらにありふれているものではありません。・・・ 芥川竜之介 「久米正雄氏の事」
・・・それに俺しには道楽という道楽も別段あるではなし、一家が暮らして行くのにはもったいないほどの出世をしたといってもいいのだ。今のようなぜいたくは実は俺しにとっては法外なことだがな。けれどもお前はじめ五人の子を持ってみると、親の心は奇妙なもので先・・・ 有島武郎 「親子」
一 婦人は、座の傍に人気のまるでない時、ひとりでは按摩を取らないが可いと、昔気質の誰でもそう云う。上はそうまでもない。あの下の事を言うのである。閨では別段に注意を要するだろう。以前は影絵、うつし絵などで・・・ 泉鏡花 「怨霊借用」
・・・が、権威的の学術書なら別段不思議はないが、或る時俗謡か何かの咄が出た時、書庫から『魯文珍報』や『親釜集』の合本を出して見せた。『魯文珍報』は黎明期の雑誌文学中、較や特色があるからマダシモだが、『親釜集』が保存されてるに到っては驚いてしまった・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・戦争に出たは別段悪意があったではないものを。出れば成程人殺もしようけれど、如何してかそれは忘れていた。ただ飛来る弾丸に向い工合、それのみを気にして、さて乗出して弥弾丸の的となったのだ。 それからの此始末。ええええ馬鹿め! 己は馬鹿だった・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・「お礼はいゝが、それで別段異状はなかったかね?」「異状? ……」彼にもKの云う意味が一寸わからなかった。「……だと別に何でもないがね、僕はまた何処か異状がありやしなかったかと思ってね。……そんな話を一寸聞いたもんだから」 斯・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・私の性質でありましょうか、私だけは若い者の中でも別段に凝り固まり、間がな隙がな、尺八を手にして、それを吹いてさえいれば欲も得もなく、朝早く日の昇らぬうちに裏の山に上がって、岩に腰をかけて暁の霧を浴びながら吹いていますと、私の尺八の音でもって・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・或朝などは怖々ながらも、また今にも吠えられるか噛みつかれるかと思って、其犬の方ばかり見て往ったものだから、それに気をとられて路の一方の溝の中へ落ちたことがあった。別段怪我もしなかったが、身体中汚い泥染れになって叱られたことがある。其後親戚の・・・ 幸田露伴 「少年時代」
出典:青空文庫