・・・ 私は詩碑の背面に刻みこまれている加藤武雄氏の碑文を見直した。それは昭和十一年建てられた当時、墨の色もはっきりと読取られたものであるが、軟かい石の性質のためか僅か五年の間に墨は風雨に洗い落され、碑石は風化して左肩からはすかいに亀裂がいり・・・ 黒島伝治 「短命長命」
・・・殿様御前に出て、鋸、手斧、鑿、小刀を使ってだんだんとその形を刻み出す。次第に形がおよそ分明になって来る。その間には失敗は無い。たとい有ったにしても、何とでも作意を用いて、失敗の痕を無くすことが出来る。時刻が相応に移る。いかに物好な殿にせよ長・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・それが波を打って動くにつれて紡錘体は一刻みずつ枝の下側に沿うて下りて行った。時々休んで何か捜すような様子をするかと思うとまた急いで下りて行く、とうとう枝の二叉に別れたところまで来ると、そこから別の枝に移って今度は逆に上の方へ向いて彼の不細工・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・竹の皮を別にして包んだ蓮根の煮附と、刻み鯣とに、少々甘すぎるほど砂糖の入れられていたのも、わたくしには下町育ちの人の好む味いのように思われて、一層うれしい心持がしたのである。わたくしはジャズ模倣の踊をする踊子の楽屋で、三社祭の強飯の馳走に与・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・剣の先にて古壁に刻み残せる句には罪はわれを追い、われは罪を追うとある」「逃れしか」と父は聞き、「いずこへ」と妹はきく。「いずこと知らば尋ぬる便りもあらん。茫々と吹く夏野の風の限りは知らず。西東日の通う境は極めがたければ、独り帰り来ぬ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・千里の深きより来る地震の秒を刻み分を刻んで押し寄せるなと心付けばそれが夜鴉の城の真下で破裂したかと思う響がする。――シーワルドの眉は毛虫を撲ちたるが如く反り返る。――櫓の窓から黒烟りが吹き出す。夜の中に夜よりも黒き烟りがむくむくと吹き出す。・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・馬は前足の蹄を堅い岩の上に発矢と刻み込んだ。 こけこっこうと鶏がまた一声鳴いた。 女はあっと云って、緊めた手綱を一度に緩めた。馬は諸膝を折る。乗った人と共に真向へ前へのめった。岩の下は深い淵であった。 蹄の跡はいまだに岩の上に残・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・きの中に、あの柳の花芽の銀びろうどのこころもち、なめらかな春のはじめの光のぐあいが実にはっきり出ているように、うずのしゅげというときは、あの毛科のおきなぐさの黒朱子の花びら、青じろいやはり銀びろうどの刻みのある葉、それから六月のつやつや光る・・・ 宮沢賢治 「おきなぐさ」
霧がじめじめ降っていた。 諒安は、その霧の底をひとり、険しい山谷の、刻みを渉って行きました。 沓の底を半分踏み抜いてしまいながらそのいちばん高い処からいちばん暗い深いところへまたその谷の底から霧に吸いこまれた次の峯・・・ 宮沢賢治 「マグノリアの木」
・・・ 父方の祖母、母方の祖母が、わたしの幼い時代に徳川時代から明治初年への物語を色こく刻みこませた人々であった。いまわたしたちが封建社会の崩壊期として理解している幕末と、中途半端な開化期として理解している明治初年についてのさまざまの物語りを・・・ 宮本百合子 「菊人形」
出典:青空文庫