・・・ 丁度上野でデモが解散という刻限、朝から晴れていた空が驟雨模様になって来た。「こりゃふるね」「同じふるなら、早くたのみますね」 かわりがわり本気で窓から空模様をうかがっている。黒雲は段々ひろがった。やがて若葉の裏を翻して暗く・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・塵埃をかぶって白けた街路樹が萎え凋んで、烈しく夕涼を待つ刻限だ。ここも暑い。日中の熱度は頂上に昇る。けれども、この爽かさ、清澄さ! 空は荘厳な幅広い焔のようだ。重々しい、秒のすぐるのさえ感じられるような日盛りの熱と光との横溢の下で、樹々の緑・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・この刻限並木道は勤めがえりの通行人で一杯だ。 鞁鳥打帽の下で外套の襟を深く立て、物がつまりすぎてパチンも満足にかからない書類入鞄を小脇にかかえ、わき目もふらずポケットへ手をつっこんで歩いて行く男や女――これは至極ありふれた文明国の恰好だ・・・ 宮本百合子 「砂遊場からの同志」
・・・お客があって、妻が丁度話しに身が入った時、紅茶を出すべき刻限になった。良人が立って行って、先刻妻の準備して置いた道具を持って来、それに湯を注ぐ。気がついて、夫人も話しながら体を動かして、菓子やその他を配るでしょう。 何についても、斯様な・・・ 宮本百合子 「男女交際より家庭生活へ」
・・・中略「彼等は午前に一二時間の講義に出席し、昼食後は戸外の運動に二三時間を消し、茶の刻限には相互に訪問し、夕食にはコレヂに行きて大衆と会食す。」とそして、そのような生活は漱石にとって「費用の点に於て、時間の点に於て又性格に於て、迚も調和出来な・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
・・・ 六時すこしまわった刻限で、その場末の終点の光景は一種特別であった。市内から終点に向って来る電車はどれも満員で、陸続と下りる群集が、すぐ傍の省線駅や歩道の各方面にちらばるが、その電車が終点からベルを合図に市内に向けて出発する時はどれにも・・・ 宮本百合子 「電車の見えない電車通り」
・・・ 女の方は幾分明るく、〔九字伏字〕、〔十五字伏字〕あったが、朝のその刻限には、毎日きまってホーホケキョ、ケキョケキョと明晰な丸い響で高い窓から鶯の声が落ちて来るのであった。鶯の音のする方からは、夕方揚げものをする油の芳ばしい匂いも流れて・・・ 宮本百合子 「日記」
・・・十一時ごろ控室まで入って、十一時半傍聴席へ入場して、開会は一時というのだから、この店も自然と繁昌する刻限である。地方から上京して来ている相当の年配の、村の有力者という風采の男が相当多い。背中に大きい縫紋のついた羽織に、うしろ下りの袴姿で、弁・・・ 宮本百合子 「待呆け議会風景」
・・・お婆さんが糸を巻くのは、もう風見のさえ、羽交に首を突こんで一本脚で立ったまま、ぐっすり眠っている刻限でしたもの。〔一九二三年九月〕 宮本百合子 「ようか月の晩」
・・・そのことも父に言伝して、夜電燈が暗くて本の読めない刻限になると、私は様々な考えの間にさしはさんで、さて来年父の七十歳の誕生日にはどんな趣向でよろこばせたものかなどと頻りに考えた。また、もし父が退院する時分私の方でも生活の条件が変ったとしたら・・・ 宮本百合子 「わが父」
出典:青空文庫