・・・……視むれば、幼い時のその光景を目前に見るようでもあるし、また夢らしくもあれば、前世が兎であった時、木賊の中から、ひょいと覗いた景色かも分らぬ。待て、希くは兎でありたい。二股坂の狸は恐れる。 いや、こうも、他愛のない事を考えるのも、思出・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・なまじ紹介状があるだけに、喧嘩面で、宿を替えるとも言われない。前世の業と断念めて、せめて近所で、蕎麦か饂飩の御都合はなるまいか、と恐る恐る申し出ると、饂飩なら聞いてみましょう。ああ、それを二ぜん頼みます。女中は遁げ腰のもったて尻で、敷居へ半・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・おのれ竜にもなる奴が、前世の業か、死恥を曝すは不便だ。――俺が葬ってやるべえ。だが、蛇塚、猫塚、狐塚よ。塚といえば、これ突流すではあんめえ。土に埋めるだな、土葬にしべえ。(半ばくされたる鯉の、肥えて大なるを水より引上ぐ。客者引導の文句は知ら・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・生きているじゃないか、君、おそるべきものだねえ。」前世の因縁とでも言うべきか、先生は、その水族館の山椒魚をひとめ見たとたんに、のぼせてしまったのである。「はじめてだ。」先生は唸るようにして言うのである。「はじめて見た。いや、前にも幾度か・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・しかしあらゆる方則は元来経験的なもので前世の約束事でもなんでもない事を思い出せば素量仮説が確立した方則となりえぬという道理もない。もし素量説が勝利を占めて旧物理学との間の橋渡しができればどうであろうか。おそらくそのために従来の物理学がことご・・・ 寺田寅彦 「物理学と感覚」
・・・竜泉寺町 日本堤を行き尽して浄閑寺に至るあたりの風景は、三、四十年後の今日、これを追想すると、恍として前世を悟る思いがある。堤の上は大門近くとはちがって、小屋掛けの飲食店もなく、車夫もいず、人通りもなく、榎か何かの大木が立っていて、その・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・これは癩をやむ人の前世の業を自ら世に告ぐる、むごき仕打ちなりとシャロットの女は知るすべもあらぬ。 旅商人の脊に負える包の中には赤きリボンのあるか、白き下着のあるか、珊瑚、瑪瑙、水晶、真珠のあるか、包める中を照らさねば、中にあるものは鏡に・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・心の奥に何者かほのめいて消え難き前世の名残の如きを、白日の下に引き出して明ら様に見極むるはこの盾の力である。いずくより吹くとも知らぬ業障の風の、隙多き胸に洩れて目に見えぬ波の、立ちては崩れ、崩れては立つを浪なき昔、風吹かぬ昔に返すはこの盾の・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・冷ややけき世人は前世の因と説き運命と解き平然として哀れなる労働者を見下す。惨酷である。咫尺を解かぬ暗夜にこれこそとすがりしこの綱のかく弱き者とは知らなかった。危うしと悟る瞬間救いを叫ぶは自然である。彼らを危うしと見ながら悠々とエジプトの葉巻・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫