・・・だからいよいよ立つと云う前夜、彼女は犬を抱き上げては、その鼻に頬をすりつけながら、何度も止めどない啜り泣きを呑みこみ呑みこみしたものだった。………「あの犬は中々利巧だったが、こいつはどうも莫迦らしいな。第一人相が、――人相じゃない。犬相・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ 景品はその前夜に註文した。当日の朝、僕が学校の事務室へ行った時には、もう僕たちの連中が、大ぜい集って、盛んに籤をこしらえていた。うまく紙撚をよれる人が少いので、広瀬先生や正木先生が、手伝ってくださる。僕たちの中では、砂岡君がうまく撚る・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・ この海戦の始まる前夜、彼は甲板を歩いているうちにかすかな角燈の光を見つけ、そっとそこへ歩いて行った。するとそこには年の若い軍楽隊の楽手が一人甲板の上に腹ばいになり、敵の目を避けた角燈の光に聖書を読んでいるのであった。K中尉は何か感動し・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
・・・ 茫となって、辻に立って、前夜の雨を怨めしく、空を仰ぐ、と皎々として澄渡って、銀河一帯、近い山の端から玉の橋を町家の屋根へ投げ懸ける。その上へ、真白な形で、瑠璃色の透くのに薄い黄金の輪郭した、さげ結びの帯の見える、うしろ向きで、雲のよう・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・……私はその時は前夜着いた電車の停車場の方へ遁足に急いだっけが――笑うものは笑え。――そよぐ風よりも、湖の蒼い水が、蘆の葉ごしにすらすらと渡って、おろした荷の、その小魚にも、蕈にも颯とかかる、霜こしの黄茸の風情が忘れられない。皆とは言わぬが・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ 前夜、福井に一泊して、その朝六つ橋、麻生津を、まだ山かつらに月影を結ぶ頃、霧の中を俥で過ぎて、九時頃武生に着いたのであった。――誰もいう……此処は水の美しい、女のきれいな処である。柳屋の柳の陰に、門走る谿河の流に立つ姿は、まだ朝霧をそ・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・再び気が付いて見たら、前夜川から突進した道筋をずッと右に離れたとこに独立家屋があった。その附近の畑の掘れたなかに倒れとった。夜のあけ方であったんやけど、まだ薄暗かった。あたまを挙げてあたりを見ると、独り兵の這いさがるんかと思た黒い影があるや・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・時間から計ると、前夜私の下宿へ来られて帰ると直ぐ認めて投郵したらしいので、文面は記憶していないが、その意味は、私のペン・ネエムは知っていても本名は知らなかったので失礼した、アトで偶っと気がついて取敢えずお詫びに上ったがお留守で残念をした、ド・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 夜が明けたときには、もうこの一隊は、この城下には、どこにも見えませんでした。前夜のうちに、皇子の馬車も、それについてきた騎馬の勇士らも、波の上へ、とっとと駆け込んで、海の中へ入ってしまったものと思われたのであります。 夕焼けのした・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・ あくる日の晩は、あまり両方とも、前夜のようにはよく光りませんでした。自然を家として、川の上や、空を飛んでいるものを、狭いかごの中にいれたせいでもありましょう。ほたるは、だんだん弱って、日ごとに、小さな川のほたるから、一匹、二匹と死んで・・・ 小川未明 「海ぼたる」
出典:青空文庫