・・・はげしい恐慌に襲われた彼らは自分の身長の何倍、あるいは何十倍の高さを飛び上がってすぐ前面の茂みに隠れる。そうして再び鋏がそこに迫って来るまではそこで落ち付いているらしい。彼らの恐慌は単に反射的の動作に過ぎないか、あるいは非常に短い記憶しか持・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
いつかある大新聞社の工場を見学に行ってあの高速度輪転機の前面を瀑布のごとく流れ落ちる新聞紙の帯が、截断され折り畳まれ積み上げられて行く光景を見ていたとき、なるほどこれではジャーナリズムが世界に氾濫するのも当然だという気がし・・・ 寺田寅彦 「ジャーナリズム雑感」
・・・ いよいよ西洋へ出発となって神戸まで行ったらあす船に乗るという日に、もう前歯の前面に取り付けた陶器の歯が後面の金板から脱落した。あわてて神戸の町を歩いて歯医者を捜してやっと応急取り付け法を講じてもらったが、ベルリンへ着いてまもなくまたい・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ふもとのほうから迎いに来た自動車の前面のガラス窓に降灰がまばらな絣模様を描いていた。 山をおりる途中で出会った土方らの中には目にはいった灰を片手でこすりながら歩いているのもあった。荷車を引いた馬が異常に低く首をたれて歩いているように見え・・・ 寺田寅彦 「小爆発二件」
・・・ 弛緩の極限を表象するような大きな欠伸をしたときに車が急に止まって前面の空中の黄色いシグナルがパッと赤色に変った。これも赤のあとには青が出、青のあとにはまた赤が出るのである。 これを書き終った日の夕刊第一頁に「紛糾せる予算問題。・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・その方法を使って鉄砲のたまが空中を飛んでいるときに、前面の空気を押しつけているありさまや、たまの後ろに渦巻を起こして進んでいる様子を写真にとることもできるし、また飛行機のプロペラーが空気を切っている模様を調べたり、そのほかいろいろのおもしろ・・・ 寺田寅彦 「茶わんの湯」
・・・これは去年病中に『水滸伝』を読んだ時に、望見前面、満目蘆花、一派大江、滔々滾々、正来潯陽江辺、只聴得背後喊叫、火把乱明、吹風胡哨将来、という景色が面白いと感じて、こんな景色が俳句になったら面白かろうと思うた事があるので、川の景色の聯想から、・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・ 沓の代はたられて百舌鳥の声悲し 馬の尾をたばねてくゝる薄かな 菅笠のそろふて動く芒かな 駄句積もるほどに峠までは来りたり。前面忽ち見る海水盆の如く大島初島皆手の届くばかりに近く朝霧の晴間より一握りほどの小岩さえ・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・ 最近の数ヵ月間に、作家による戦争のルポルタージュが前面におし出されて来ている。一九三七年の日本文学について語るとき、この特徴的な現象は見落せない。そして、この現象は、本年のはじめ頃から日本の文学者の一部の間に特殊な傾向をもって強調され・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
・・・ 並木道がすっかり黄色くなり、深く重りあった黄色い秋の木の葉のむこうに、それより更に黄色く塗られたロシア風の建物の前面が見える。よく驟雨が降った。並木道には水たまりが出来る。すぐあがった雨のあとは爽やかな青空だ。落葉のふきよせた水たまり・・・ 宮本百合子 「「鎌と鎚」工場の文学研究会」
出典:青空文庫