・・・どうも、ウェーヴした前髪、少くとも銘仙の派手な羽織、彼女の坐っているのはよし古風なコタツであろうとも、座布団のわきにはハンド・バッグがありそうに思われる。――つまりこれは読者のきわめて小ブルジョア的興味によびかけ何枚かの銀貨を釣り出そうとす・・・ 宮本百合子 「ゴルフ・パンツははいていまい」
・・・大抵のひとは前髪をとってすこしふくらしたお下げにしていたが私はそれがどうしてもきらいであった。髪ぐらい自分の頭に生えているものなのにどうしてすきに結っていけないのだろう。監督するものの心理に立って見ることは当然出来ないのだから、本当にいやだ・・・ 宮本百合子 「青春」
・・・幾回かの襲撃の間に、うちのぐるりもひどくやられて、唐子の前髪のように動坂のところから団子坂にかけて浅い奥ゆきが残った。 動坂の上にたって今日東の方を眺めると、坦々たる田端への大通りの彼方にいかにも近代都市らしい大陸橋が見え、右手には道灌・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・ かなり長い間しゃくり上げて居たさきは、ようやっと前髪をかきあげながら、「もうやめましてございます。 せめて新らしい女が馴れるまで置いていただきましょうし出来るだけ御馳走も差しあげて置きましょう。」と云って無理無理に淋しそう・・・ 宮本百合子 「蛋白石」
・・・ そうして思い出す時には一番始めに前髪の処にあがった小指から頸から前髪から眼と云う順でしたよ、どんなはじっこにあるものでも一番先に目の行った場所から見えて来るもんですねえ。 そいで一寸も変な形容じゃないんです。「私そんな事一度も・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
・・・ 髪が解けてずった前髪からはモジャモジャな心が喰み出て居るし引きずって居る帯に足を取られては俵の様になって二人ともころがる。 四五度引っくり返っては起きなおり起きなおりして居る内に二人とも疲れ切ってしまってペタッと座ったまんま今度は・・・ 宮本百合子 「二十三番地」
・・・―― わたしたち姉弟が、紺絣の筒袖に小倉の小さい袴をはいた男の児と、リボンをお下げの前髪に結んでメリンスの元禄袖の被布をきた少女で、誠之に通っていたころ、学校はどこもかしこも木造で、毎日数百の子供たちの麻裏草履でかけまわられる廊下も階段・・・ 宮本百合子 「藤棚」
・・・飛沫が容赦なく藍子のかがんでいる顔や前髪にかかった。「はっはっはっ、こりゃ愉快だ」「生意気にこんな海でも塩っからい」 手の甲で頬っぺたを拭き、後毛を風に吹かせながら藍子は笑い笑い戻って来た。「道具がなけりゃ駄目ですよ。あ、あ・・・ 宮本百合子 「帆」
・・・お君は、ふっくりした束髪の前髪がちぎれそうに首を横に振った。「――奥さまが大変なの」 いきなり、お君の眼から大きな涙がころがり落ちた。「早く来て下さいよ、奥様が本当に大変なのよ」 大股に戻りながら、石川は頻りに訊くが、十七の・・・ 宮本百合子 「牡丹」
・・・まだ猪之助といって、前髪のあったとき、たびたび話をしかけたり、何かに手を借してやったりしていた年上の男が、「どうも阿部にはつけ入る隙がない」と言って我を折った。そこらを考えてみると、忠利が自分の癖を改めたく思いながら改めることの出来なかった・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫