・・・あなたが次第に名高くおなりになるのを、わたくしは蔭ながら胸に動悸をさせて、正直に心から嬉しく存じて傍看いたしていました。それにひっきりなしに評判の作をお出しになるものですから、わたくしが断えずあなたの事を思わせられるのも、余儀ないわけでござ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・これを聞くと自分の胸は非常な動悸を打ち始めて容易に静まらぬ。周囲は忽ちコレラの話となってしもうた。ただこの後の処分がどうであろうという心配が皆を悩まして居る内に一週間停船の命令は下った。再び鼎の沸くが如くに騒ぎ出した。終に記者と士官とが相談・・・ 正岡子規 「病」
・・・それからまるで風のよう、あらしのように汗と動悸で燃えながら、さっきの草場にとって返した。僕も全く疲れていた。 ネリはちらちらこっちの方を見てばかりいた。 けれどもペムペルは、『さあ、いいよ。入ろう。』とネリに云った。 ネ・・・ 宮沢賢治 「黄いろのトマト」
・・・緑の怒濤のように前後左右で吼え沸き立つのはよいとして、異様な動悸を打たせるのは、竹は嫋やかだからその擾乱の様がいやに動的ぽいことだ。濡れて繁茂した竹が房々した大きい手、ふり乱した髪、その奥には眼さえ光らせて猛るようだ。大竹藪の真ん中で嵐に会・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・ 手足がむくんだり、時に動悸が非常にせわしい事などがあったけれ共、お節は元より栄蔵自身でさえ心臓が悪くなって居ると云う事は知らなかった。 今はもう只一人の相談相手の達に一寸でも来てもらうより仕様がないと思って、お節は人にたのんで今度・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 眼の裏が熱い様で居て涙もこぼれず動悸ばっかりがいつも何かに動かされた時と同じに速くハッキリと打って声はすっかりかすれた様になって仕舞った。 指の先まで鼓動が伝わって来る様で旅費のお札をくる時意くじなくブルブルとした。 今頃私が・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・であると云う丈の理由で、さも博大な知識を獲得しつつあるような満足と動悸とを以て読み、筆写さえした通りに。 この本の印刷された年代で見ると、祖父は三十前後の壮年で、末弟が十七八であったらしい。恐らく末弟――私からは伯父に当る少年が、当時住・・・ 宮本百合子 「蠹魚」
・・・でもわたしびっくりしたので、いまだに動悸がしますわ。ひどく打ったのに、痛くもなんともないのですもの。ちょうどそっと手をさすってくれたようでしたわ。真っ赤な、ごつごつした手でしたのに、脣が障ったようでしたわ。そうでなけりゃ心の臓が障ったようで・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ 己は直ぐにその明りを辿って、家の戸口に行って、少し動悸をさせながら、戸を叩いた。 内からは「どうぞ」と、落ち着いた声で答えた。 己は戸を開けたが、意外の感に打たれて、閾の上に足を留めた。 ランプの点けてある古卓に、エルリン・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・私は動悸の高まるのを覚えた。私は嬉しさに思わず両手を高くささげた。讃嘆の語が私の口からほとばしり出た。坂の途中までのぼった時には、私はこの喜びを愛する者に分かちたい欲望に強くつかまれていた。―― 私は思う、要するにこれが創作の心理ではな・・・ 和辻哲郎 「創作の心理について」
出典:青空文庫