・・・と嬌優る目に父を見て、父様、もう負けはしませんよ。と笑いながらまた綱雄に向い、なぜもっと早く来て下さらなかッたの。あんまりだわ。私なんぞのことはすこしもお構いなさらないからひどいわ。あらいやな髭なんぞを生やして、と言いかけしがその時そこへ来・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・遮った所へ来たと思うと少女は卒然僕に抱きつかんばかりに寄添って『貴様母の言葉を気にして小妹を見捨ては不可ませんよ』と囁き、その手を僕の肩にかけるが早いか僕の左の頬にべたり熱いものが触て一種、花にも優る香が鼻先を掠めました。突然明い所へ出・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・そしてまた誰か他人の所有に優るところの面白い、味のある、平凡ならぬ骨董を得ることを悦ばぬ者があろう。需むる者が多くて、給さるべき物は少い。さあ骨董がどうして貴きが上にも貴くならずにいよう。上は大名たちより、下は有福の町人に至るまで、競って高・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・ 五 死刑は最も忌わしく恐るべき者とせられて居る、然し私には単に死の方法としては、病死其他の不自然と甚だ択ぶ所はない、而して其十分な覚悟を為し得ることと、肉体の苦痛を伴わぬこととは他の死に優るとも劣る所はないかと思う。 左ら・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・ 第三巻の後記に於て、私は井伏さんと早稲田界隈との因果関係に触れたが、その早稲田界隈に優るとも劣らぬ程のそれこそ「宿命的」と言ってもいいくらいの、縁が、井伏さんの文学と「旅」とにつながっていると言いたい気持にさえなるのである。 人間・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・いのちは糧にまさり、からだは衣に勝るならずや。空飛ぶ鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず。野の百合は如何にして育つかを思え、労せず、紡がざるなり、されど栄華を極めしソロモンだに、その服装この花の一つにも如かざりき。きょうありて明日、炉に投げ・・・ 太宰治 「鴎」
・・・兄弟にのみ挨拶すとも何の勝ることかある、異邦人も然するにあらずや。然らば汝らの天の父の全きが如く、汝らもまた、全かれ。 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・死んだ借り物の知識のこせこせとした羅列に優る事どれだけだか分らない。そして更に生徒を相手にし助手にして、生徒から材料を集めさせたりして研究をすすめればよい。 間違いを教えたとしてもそれはそれほど恥ずべき事ではない。また生徒の害にもならな・・・ 寺田寅彦 「雑感」
・・・たとえ今日のような世の中でも、場合によってはかえってこの頃のいろいろの人聞きのいいデーに勝る事がないとも限らない。今の人でもおそらく年中悪い事ばかりはしていまい。 危険な崖の上に立っている人を急に引止めようとするとかえって危険だという話・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ころが出来ると、もうすっかり思い上がって、冷静な第三者から見ればその人とは到底比較にならぬほど優れた他の学者のほんの少しの知識の不足を偶然に発見でもすると、それだけでもう自分がその相手に比して全般的に優ると思ったりするのは滔々として天下の風・・・ 寺田寅彦 「徒然草の鑑賞」
出典:青空文庫