火遁巻 千曲川に河童が棲んでいた昔の話である。 この河童の尻が、数え年二百歳か三百歳という未だうら若い青さに痩せていた頃、嘘八百と出鱈目仙人で狐狸かためた新手村では、信州にかくれもなき怪しげな年中行事が行われ、毎年大晦日の夜・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
・・・島崎藤村の「千曲川のスケッチ」その他に、部分的にちょい/\現れているのと、長塚節の、農民文学を論じる時にはだれにでも必ずひっぱりだされる唯一の「土」以外には、ほとんど見つからない。たまたま扱われているかと思うと、真山青果の「南小泉村」のよう・・・ 黒島伝治 「農民文学の問題」
・・・人々の話は鉱泉の性質、新浴場の設計などで持切った。千曲川への水泳の序に、見に来る町の子供等もあった。中には塾の生徒も遊びに来ていて、先生方の方へ向って御辞儀した。生徒等が戯れに突落す石は、他の石にぶつかったり、土煙を立てたりして、ゴロゴロ崖・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・そして暗く寂しい雪空に、日のめを仰ぐことも稀な頃になると浅間のけぶりも隠れて見えなかった。千曲川の流れですら氷に閉された。私の周囲には降りつもる深い溶けない一面の雪があるばかりであった。その雪は私の旧い住居の庭をも埋めた。どうかすると北向の・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
・・・おそらく「千曲川のスケッチ」らしい。もう一度ああいう年ごろになってみたいといったような気もするのであった。 園内の渓谷に渡した釣り橋を渡って行くとき向こうから来た浴衣姿の青年の片手にさげていたのも、どうもやはり「千曲川のスケッチ」らしい・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
ふつか小雨が降って、晴れあがったら、今日は山々の眺めから風の音まで、いかにもさやかな秋という工合になった。 山の茶屋の二階からずうっと見晴すと、遠い山襞が珍しくはっきり見え、千曲川の上流に架っているコンクリートの橋が白・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
・・・ この川が流れて千曲川に合します。この手前にやや濃い山の左手に長野がある。更に左手のこのハガキからはずれたところに雪をいただいた日本アルプスが見えます。落日を受けて美しいのはこの遠くかすんだ山々です。田は収穫時です。お湯は一日一度です。・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・「千曲川のスケッチ」は、詩から小説へ移る間の足がかりとして、藤村の全作品の系列の中に深い意味を保つものである。この時代、日本文学の動きのうちにホトトギス派の写生文の運動がおこり、現実生活と芸術との関係についての理解がロマンティック時代の・・・ 宮本百合子 「藤村の文学にうつる自然」
出典:青空文庫