・・・すると本多子爵は、私の足音が耳にはいったものと見えて、徐にこちらを振返ったが、やがてその半白な髭に掩われた唇に、ちらりと微笑の影が動くと、心もち山高帽を持ち上げながら、「やあ」と柔しい声で会釈をした。私はかすかな心の寛ぎを感じて、無言のまま・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ 宇左衛門は、半白の頭を傾けた。年よりもふけた、彼の顔は、この頃の心労で一層皺を増している。――林右衛門の企ては、彼も快くは思っていない。が、何と云っても相手は本家からの附人である。「縛り首は穏便でございますまい。武士らしく切腹でも・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・ その中で物慣れたらしい半白の丈けの高いのが、一同に代わってのようにこう言った。「御苦労はこっちのことだぞ」そうその男の口の裏は言っているように彼には感じられた。不快な冷水を浴びた彼は改めて不快な微温湯を見舞われたのだ。それでも彼は能う・・・ 有島武郎 「親子」
・・・と娘が、つい傍に、蓮池に向いて、という膝ぎりの帷子で、眼鏡の下に内職らしい網をすいている半白の父を呼ぶと、急いで眼鏡を外して、コツンと水牛の柄を畳んで、台に乗せて、それから向直って、丁寧に辞儀をして、「ええ、浦安様は、浦安かれとの、その・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・鏡に写った自分のすぐ隣の椅子に、半白で痩躯の老人が収まっている。よく見ると、歌舞伎俳優で有名なIR氏である。鏡の中のI氏は、実物の筆者のほうを時々じろりじろりとながめていた。舞台で見る若さとちがって、やはりもうかなり老人という感じがする。自・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・そこで私は立って窓枠にのせてあった草花の鉢をもって片隅に始めから黙って坐っていた半白の老寡婦の前に進み、うやうやしくそれを捧げる真似をしたら皆が喜んでブラボーを叫んだり手と拍いたりした。その時主婦のルコック夫人が甲高い声を張上げて Elle・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・ 車掌の声に電車ががたりと動くや否や、席を取りそこねて立っていた半白の婆に、その娘らしい十八、九の銀杏返し前垂掛けの女が、二人一度に揃って倒れかけそうにして危くも釣革に取りすがった。同時に、「あいたッ。」と足を踏まれて叫んだものがあ・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・というのを見ると風邪でもひいているのでしょう、のどを白い布でまき、縞の着物を着た半白の五十越したおばさんが、蒼白いけれどそれは晴れやかな若々しい様子で隣の、これもなかなかしゃんとした小母さんと話しています。やや乱れかかった白髪と、確かり大き・・・ 宮本百合子 「共産党公判を傍聴して」
・・・ 手塚は片手の指で半白の髭が延びた顎を撫でていたが、あちらを向いて鳶の働くのを眺めている幸雄の肩を軽く叩いた。「君、この方が自動車で来られたんだそうだが、丁度いい工合だ、帰途乗せていただいて病院へ廻って行こうじゃないか」 自信の・・・ 宮本百合子 「牡丹」
・・・下町の人間らしい音曲ずきから暫く耳を傾けていたせきは、軈て、顔を顰めながら、艶も抜けたニッケルの簪で自棄に半白の結び髪の根を掻いた。「全くやんなっちゃうねえ」 思案に暮れた独言に、この夜中で応えるのは、死んだ嫁が清元のさらいで貰った・・・ 宮本百合子 「街」
出典:青空文庫