・・・「今の内に何とかして上げないと、取り返しのつかない事になりますよ。」「まあ、なったらなった時の事さ。」 牧野は葉巻の煙の中から、薄眼に彼女を眺めていた。「嚊の事なんぞを案じるよりゃ、お前こそ体に気をつけるが好い。何だかこの頃・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・そうして、それが取り返しのつかない、ばかな事だったような心もちがする。僕はよっぽど、もう一度行こうかと思った。が、なんだかそれが恥しかった。それに感情を誇張しているような気も、少しはした。「もうしかたがない」――そう、思ってとうとうやめにし・・・ 芥川竜之介 「葬儀記」
・・・ 僕は実際震災のために取り返しのつかない打撃を受けた年少の実業家を想像していた。それはまた木蔦のからみついたコッテエジ風の西洋館と――殊に硝子窓の前に植えた棕櫚や芭蕉の幾株かと調和しているのに違いなかった。 しかしT君は腰をかがめ、・・・ 芥川竜之介 「悠々荘」
・・・手ぶらで、その手つきは、大石投魚を取返しそうな構えでない。鰌が居たら押えたそうに見える。丸太ぐるみ、どか落しで遁げた、たった今。……いや、遁げたの候の。……あか褌にも恥じよかし。「大かい魚ア石地蔵様に化けてはいねえか。」 と、石投魚・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・「一時後れては、取り返しがなりません。いったい、あなたがたは病を軽蔑しておらるるから埒あかん。感情をとやかくいうのは姑息です。看護婦ちょっとお押え申せ」 いと厳かなる命のもとに五名の看護婦はバラバラと夫人を囲みて、その手と足とを押え・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・貴方を抱いて、ちゃんと起きて、居直って、あいそづかしをきっぱり言って、夜中に直ぐに飛出して、溜飲を下げてやろうと思ったけれど……どんな発機で、自棄腹の、あの人たちの乱暴に、貴方に怪我でもさせた日にゃ、取返しがつかないから、といま胸に手を置い・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・自分もなぜ早く池を埋めなかったか、取り返しのつかぬあやまちであった。その悔恨はひしひし胸にこたえて、深いため息をするほかはない。「ねいあなた、わたしがいちばん後に見た時にはだれかの大人下駄をはいていた。あの子は容易に素足にならなかったか・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・にやったのが、こういうことになってしまった……たとい女の方が年上であろうとも本人同志が得心であらば、何も親だからとて余計な口出しをせなくもよいのに、この母が年甲斐もなく親だてらにいらぬお世話を焼いて、取返しのつかぬことをしてしまった。民子は・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・「もう、出来たことは何と言っても取り返しのつくはずがない。すッかり私におまかせ下さい」と、僕は男らしく断言した。「しかし」と、主人が堅苦しい調子で、「世間へ、あの人の物と世間へ知れてしまっては、芸者が売れませんから、なア――また出来・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・といって、良吉からそれを取り返して持ってゆきました。その後で、良吉はさも名残惜しそうにして、力蔵の後ろ姿を見送っていました。 良吉の住んでいる家はあばら屋でありました。そして、良吉は床の中に入ってから、昼間見たオルゴールや、飛行機の・・・ 小川未明 「星の世界から」
出典:青空文庫