・・・轢死した彼は汽車の為に顔もすっかり肉塊になり、僅かに唯口髭だけ残っていたとか云うことだった。この話は勿論話自身も薄気味悪いのに違いなかった。しかし彼の肖像画はどこも完全に描いてあるものの、口髭だけはなぜかぼんやりしていた。僕は光線の加減かと・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ 色のまっ黒な、眼の大きい、柔な口髭のあるミスラ君は、テエブルの上にある石油ランプの心を撚りながら、元気よく私に挨拶しました。「いや、あなたの魔術さえ拝見出来れば、雨くらいは何ともありません。」 私は椅子に腰かけてから、うす暗い・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・褐色の口髭の短い彼は一杯の麦酒に酔った時さえ、テエブルの上に頬杖をつき、時々A中尉にこう言ったりしていた。「どうだ、おれたちも鼠狩をしては?」 ある雨の晴れ上った朝、甲板士官だったA中尉はSと云う水兵に上陸を許可した。それは彼の小鼠・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
・・・ さて、僕の向いあっている妙な男だが、こいつは、鼻の先へ度の強そうな近眼鏡をかけて、退屈らしく新聞を読んでいる。口髭の濃い、顋の四角な、どこかで見た事のあるような男だが、どうしても思い出せない。頭の毛を、長くもじゃもじゃ生やしている所で・・・ 芥川竜之介 「MENSURA ZOILI」
・・・ 声をかけたのは三十前後の、眼の鋭い、口髭の不似合な、長顔の男だった。農民の間で長顔の男を見るのは、豚の中で馬の顔を見るようなものだった。彼れの心は緊張しながらもその男の顔を珍らしげに見入らない訳には行かなかった。彼れは辞儀一つしなかっ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ しかし中学生の分際で髪の毛を伸ばすのは、口髭を生やすよりも困難であった。それ故私は高等学校にはいってから伸ばそうという計画を樹て、学校もなるべく頭髪の型に関する自由を許してくれそうな学校を選んだ。倖い私のはいった学校は自由を校風として・・・ 織田作之助 「髪」
・・・と達筆だが、律義そうなその楷書の字が薄給で七人の家族を養っているというこの老訓導の日々の営みを、ふと覗かせているようだった。口髭の先に水洟が光って、埃も溜っているのは、寒空の十町を歩いて来たせい許りではなかろう。「先日聴いた話ですが」と・・・ 織田作之助 「世相」
・・・と原はハンケチで長い口髭を拭いた。「だって君、そうじゃないか、やがてお互いに四十という声を聞くじゃないか」「だから僕も田舎を辞めて来たような訳さ。それに、まあ差当りこれという職業も無いが、その内にはどうかなるだろうと思って――」・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・亭主はあまく、いいとしをして口髭なんかを生やしていながら「うむ、子供の純真性は大事だ」などと騒ぐ。親馬鹿というものに酷似している。いい図ではない。 日本には「誠」という倫理はあっても、「純真」なんて概念は無かった。人が「純真」と銘打って・・・ 太宰治 「純真」
・・・しさ、何を言い出すのかと思ったら、創作の苦心談だってさ、苦心談、たまらねえや、あいつこのごろ、まじめになったんだってね、金でもたまったんじゃないか、勉強いたしているそうだ、酒はつまらぬと言ったってね、口髭をはやしたという話を聞いたが、嘘かい・・・ 太宰治 「鉄面皮」
出典:青空文庫