・・・ 牧野の妻はこう云うと、古びた肩掛に顔を隠しながら、突然しくしく泣き始めた。すると何故か黙っていたお蓮も、急に悲しい気がして来た。やっと金さんにも遇える時が来たのだ、嬉しい。嬉しい。――彼女はそう思いながら、それでも春着の膝の上へ、やは・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・祖母は帯の間から鍵を出して、その御宮の扉を開けましたが、今雪洞の光に透かして見ると、古びた錦の御戸帳の後に、端然と立っている御神体は、ほかでもない、この麻利耶観音なのです。お栄はそれを見ると同時に、急にこおろぎの鳴く声さえしない真夜中の土蔵・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・――ところで、とぼけきった興は尽きず、神巫の鈴から思いついて、古びた玩弄品屋の店で、ありあわせたこの雀を買ったのがはじまりで、笛吹はかつて、麻布辺の大資産家で、郷土民俗の趣味と、研究と、地鎮祭をかねて、飛騨、三河、信濃の国々の谷谷谷深く相交・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ちとその古びておりますので。他には唯今どうも、へい、へい。」「古くっても構わん。」 とにかく、座敷はあるので、やっと安心したように言った。 人の事は云われないが、連の男も、身体つきから様子、言語、肩の瘠せた処、色沢の悪いのなど、・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・勿論一寸見たのでは木か金かも知れないほど古びている。 僕の母なども先祖の言い伝えだからといって、この戦国時代の遺物的古家を、大へんに自慢されていた。その頃母は血の道で久しく煩って居られ、黒塗的な奥の一間がいつも母の病褥となって居た。その・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・少年は、疲れた足を引きずりながら、ある古びた町の中にはいってきました。 その町には、昔からの染物屋があり、また呉服屋や、金物屋などがありました。日は、西に入りかかっていました。少年は、あちらの空のうす黄色く、ほんのりと色づいたのが悲しか・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・また、古びた貯金帳といっしょに、なにか書いたものがほかから出てきました。それを見ると、「私は、親もなければ、兄弟もない一人ぽっちで暮らしてきた。私の一生は、けっして楽なものではなかった。人のやさしみというものをしみじみと味わわなかった私・・・ 小川未明 「三月の空の下」
・・・ その歯科医院は古びたしもた家で、二階に治療機械を備えつけてあるのだが、いかにも煤ぼけて、天井がむやみに低く、機械の先が天井にすれすれになっていて、恐らく医者はこごみながら、しばしば頭を打っつけながら治療するのではないかと思われる。看板・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・道頓堀からの通路と千日前からの通路の角に当っているところに古びた阿多福人形が据えられ、その前に「めおとぜんざい」と書いた赤い大提灯がぶら下っているのを見ると、しみじみと夫婦で行く店らしかった。おまけに、ぜんざいを註文すると、女夫の意味で一人・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・途中自動車の中から、昔のままの軒庇しを出した家並みの通りの中に、何年にも同じ古びさに見える自分らの生れた家がちらと眺められて、自分は気づかないような風をしていたがちょっと悲しい気持を誘われたりした。 本堂の傍に、こうした持込みの場合の便・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
出典:青空文庫