・・・またそのきゅんきゅんと叩く音が河向いの塀に反響したような気がするくらい鮮明な印象が残っている。そうして河畔に茂った「せんだん」の花がほろほろこぼれているような夏の日盛りの場面がその背景となっているのである。 父はいろいろの骨董道楽をした・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・長煙管で灰吹の筒を叩く音、団扇で蚊を追う響、木の橋をわたる下駄の音、これらの物音はわれわれが子供の時日々耳にきき馴れたもので、そして今は永遠に返り来ることなく、日本の国土からは消去ってしまったものである。 英国人サー・アーノルドの漫遊記・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・その鄰りに常夜燈と書いた灯を両側に立て連ね、斜に路地の奥深く、南無妙法蓮華経の赤い提灯をつるした堂と、満願稲荷とかいた祠があって、法華堂の方からカチカチカチと木魚を叩く音が聞える。 これと向合いになった車庫を見ると、さして広くもない構内・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・と独り言のように言いながら、ふと思い出した体にて、吾が膝頭を丁々と平手をたてに切って敲く。「脚気かな、脚気かな」 残る二人は夢の詩か、詩の夢か、ちょと解しがたき話しの緒をたぐる。「女の夢は男の夢よりも美くしかろ」と男が云えば「せめて・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ほんに世の中の人々は、一寸した一言をいうては泣き合ったり、笑い合ったりするもので、己のように手の指から血を出して七重に釘付にせられた門の扉を叩くのではない。一体己は人生というものについて何を知っているのだろう。なるほどどうやら己も一生という・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・公達に狐ばけたり宵の春飯盗む狐追ふ声や麦の秋狐火やいづこ河内の麦畠麦秋や狐ののかぬ小百姓秋の暮仏に化る狸かな戸を叩く狸と秋を惜みけり石を打狐守る夜の砧かな蘭夕狐のくれし奇楠をん小狐の何にむせけん小萩原・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ ふと表の河岸でカーンカーンと岩を叩く音がした。二人はぎょっとして聞き耳をたてた。 音はなくなった。(今頃探鉱嘉吉は豆の餅を口に入れた。音がこちこちまた起った。(この餅拵えるのは仙台領嘉吉はもうそっちを考えるのをやめて話しかけた・・・ 宮沢賢治 「十六日」
・・・ 気の毒な小鳥等は、日の出とともに眼を醒し、兎に角嘴に割れるほどの実は食べつくし、猶漁って羽叩くので、軽い粟の殼は、頼りなくぱっと飛んで床の間に落ちたのであったろう。 始めて私が見た時から、彼等はきっと、いつ餌壺が満されるのかと、情・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・ 戸をこつこつ叩く音がする。「Entrez !」 底に力の籠った、老人らしくない声が広間の空気を波立たせた。 戸を開けて這入って来たのは、ユダヤ教徒かと思われるような、褐色の髪の濃い、三十代の痩せた男である。 お約束の ・・・ 森鴎外 「花子」
・・・何処かの酒庫からは酒桶の輪を叩く音が聞えていた。その日婦人はまた旅へ出ていった。「いろいろどうもありがとうこざいまして。」 彼女は女の子の手を持って灸の母に礼をいった。「では御気嫌よろしく。」 赤い着物の女の子は俥の幌の中へ・・・ 横光利一 「赤い着物」
出典:青空文庫