・・・ 小さい女はひどく急いでいる風で立ち止まるのも惜しそうに、歩道の上から御者に叫んだ。 ――ひま? ――何処へ行きますかね? ――サドゥヴァヤ! ストラスナーヤの角とトゥウェルスカヤ六十八番とへよって、二ルーブリ! ――よ・・・ 宮本百合子 「モスクワの辻馬車」
・・・れらの人々にもなつかしい親もあろう、可愛らしい妻子もあろう、親しい交わりの友もあろう、身を任せた主君もあろう、それであッてこのありさま,刃の串につんざかれ、矢玉の雨に砕かれて異域の鬼となッてしまッた口惜しさはどれほどだろうか。死んでも誰にも・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・烏は績を謳歌してカアカアと鳴く、ただ願わくば田吾作と八公が身の不運を嘆き命惜しの怨みを呑んで浮世を去った事を永しえに烏には知らさないでいたい。 孝は東洋倫理の根本である、神も人もこれを讃美する。寒夜裸になって氷の上に寝たら鯉までが感心し・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫