・・・Aの両親さえ私にはそっぽを向けるだろうと思いました。一方の極へおとされてゆく私の気持は、然し、本能的な逆の力と争いはじめました。そしてAの家を出る頃ようやく調和したくつろぎに帰ることが出来ました。Aが使から帰って来てからは皆の話も変って専ら・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・中には自分の秘密を知ってあんな質問をするのではあるまいかと疑い、思わず生徒の面を見て直ぐ我顔を負向けることもある。或日の事、十歳ばかりの児が来て、「校長先生、岩崎さんが私の鉛筆を拾って返しません」と訴たえて来た。拾ったとか、失ったとか、・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・その階級的制約が、水兵たち下級の生活に注意を向けることを妨げたのであろう。「酒中日記」の如き、日清戦争後の軍人が、ひどく幅をきかした風潮を、皮肉りあてこすっている作品でも、将校はいゝのだが、下士以下が人の娘や、後家や、人妻を翫弄し堕落さ・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・ 吉は客の心に幾らでも何かの興味を与えたいと思っていた時ですから、舟を動かしてその変なものが出た方に向ける。 「ナニ、そんなものを、お前、見たからって仕様がねえじゃねえか。」 「だって、あっしにも分らねえおかしなもんだからちょっ・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・むほど小春がなつかしく魂いいつとなく叛旗を翻えしみかえる限りあれも小春これも小春兄さまと呼ぶ妹の声までがあなたやとすこし甘たれたる小春の声と疑われ今は同伴の男をこちらからおいでおいでと新田足利勧請文を向けるほどに二ツ切りの紙三つに折ることも・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・多年の経験から来たその鋭い眼を家の台所にまで向けることは、あまりおさだに悦ばれなかった。「姉さんはお料理のことでも何でもよく知っていらっしゃる。わたしも姉さんに教えて頂きたい」 とおさだはよく言ったが、その度におさだの眼は光った。・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・者から見て最も滑稽に思われることは、この有機的体系の素材として使用された素材自身、もしくはその供給者が、その素材を使って立派なものを作り上げ、そうして名工としての栄誉を博した陶工に対して不平怨恨の眼を向けるという事実である。つまり言わば某陶・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・子供の時分に少しばかり植物の採集のまね事をして、さくようのようなものを数十葉こしらえてみたりしたことはあったが、その後は特別に山野の植物界に立ち入った観察の目を向けるような機会もなくて年を経て来た。最近にある友人の趣味に少しかぶれて植物界へ・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・はじめはいっこうに気づかないようであるが九十度以上も回転すると何かしら異常を感じるらしく、つかまっている足を動かしてからだをねじ向ける。しかしそれはわずかに十度か二十度ぐらい回転するだけで、すっかり元の方向まで向き直るようなことはない。なん・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
・・・と女は右の手を高く挙げて広げたる掌を竪にランスロットに向ける。手頸を纏う黄金の腕輪がきらりと輝くときランスロットの瞳はわれ知らず動いた。「さればこそ!」と女は繰り返す。「薔薇の香に酔える病を、病と許せるは我ら二人のみ。このカメロットに集まる・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫