・・・ と呟くのを聞いて、いじらしさに、つい涙ぐみ、「どれどれ、あら、ほんとう。いまに、お豆がたくさん生るわよ。」 玄関のわきに、十坪くらいの畑地があって、以前は私がそこへいろいろ野菜を植えていたのだけれども、子供が三人になって、とて・・・ 太宰治 「おさん」
・・・それからひとりごとのように呟くのである。「四十二の一白水星。気の多いとしまわりで弱ります。」 僕はころげるようにして青扇の家から出て、夢中で家路をいそいだものだ。けれど少しずつ落ちつくにつれて、なんだか莫迦をみたというような気がだんだん・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・老人が十八歳で始めて小説というものを書いたとき、臨終の老人が、あずきかゆ、を食べたいと呟くところの描写をなしたことがある。 あずきかゆは作られた。それは、お粥にゆで小豆を散らして、塩で風味をつけたものであった。老人の田舎のごちそうであっ・・・ 太宰治 「逆行」
・・・ すると波はすこしたじろいだようにからっぽな音をたててからぶつぶつ呟くように答えました。「おれはまた、おまえたちならきっと何かにしなけぁ済まないものと思ってたんだ。」 私はどきっとして顔を赤くしてあたりを見まわしました。 ほんと・・・ 宮沢賢治 「サガレンと八月」
・・・そう呟く心持は、逆な方向と表現で、どうせ女は、という旧来の通念を我から肯定しているにほかならない。仕事の上で女として自分を守ったり主張したりするというのは、こういう、どうせに立脚した態度とは反対のものでなければならないと思う。女自身が女とし・・・ 宮本百合子 「女の歴史」
・・・と心の中で調子をとって呟くのであった。 人々の押し合う様子は、もう三四十分のうちに、電車も何も無くなると思うようであった。最後の一人をのせ、最後の一台が出発し切ると、魔法で、花崗岩の敷石も、長い長い鉄の軌道もぐーいと持ち上ってぺらぺ・・・ 宮本百合子 「粗末な花束」
・・・前菜を捧げた給仕に、苦笑し乍ら呟くのが聞えた。「ハ、ハ、眠たいです」 もう一人、縞服の男が来て、食卓についた。二人、四つ五つ離れた各々の卓子から会話を始めた。純益何割、保険金何割、何弗、何弗の話。……暇すぎる年寄の給仕が、時々ナプキ・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
・・・或る時は、如何うにかなれ、と呟くかもしれない。然し、嫌われながら彼等は殖えて行く。後から後からと生れて来る。自分がいやでも、ひとがいやでも、彼等は生きずにはいられないのだ。 水浴をする黒坊 水浴をする黒坊。 八月の日・・・ 宮本百合子 「一粒の粟」
・・・そうして、暫くは森閑とした宮殿の中で、脱皮を掻きむしるナポレオンの爪音だけが呟くようにぼりぼりと聞えていた。と、俄に彼の太い眉毛は、全身の苦痛を受け留めて慄えて来た。「余はナポレオン・ボナパルトだ。余はナポレオン・ボナパルトだ」 彼・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・と梶はこのとき身を起す気持になった。「君という人は不思議な人だな。初めに君の来たときには、何んだか跫音が普通の客とどこか違っていたように思ったんだが。――」と梶は呟くように云った。「あ、あのときは、おれ、駅からお宅の玄関まで足数を計・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫