・・・喜三郎は彼の呻吟の中に、しばしば八幡大菩薩と云う言葉がかすかに洩れるのを聞いた。殊にある夜は喜三郎が、例のごとく薬を勧めると、甚太夫はじっと彼を見て、「喜三郎。」と弱い声を出した。それからまたしばらくして、「おれは命が惜しいわ。」と云った。・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・と云うのは、彼は独り肉体的の苦痛のためにのみ、呻吟していたのではない。精神的な苦痛のために――死の恐怖を中心として、目まぐるしい感情の変化のために、泣き喚いていたのである。 彼は永久にこの世界に別れるのが、たまらなく悲しかった。それから・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・ 女の声がだんだん微な呻吟になってしまいに聞えなくなる。 沈黙。急に大勢の兵卒が槍を持ってどこからか出て来る。兵卒の声。 ――ここに足あとがあるぞ。 ――ここにもある。 ――そら、そこへ逃げた。 ――逃がすな。逃・・・ 芥川竜之介 「青年と死」
・・・ 芳様の跫音が聞えたので、はッと気が着いて駈出したが、それまでどうしていたんだか、まるで夢のようでと火花の散るごとく、良人の膚を犯すごとに、太く絶え、細く続き、長く幽けき呻吟声の、お貞の耳を貫くにぞ、あれよあれよとばかりに自ら恐れ、自ら・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・と、どこか高いところから、「自分が耽溺しているからだ」と、呼号するものがあるようだ。またどこか深いところから、「耽溺が生命だ」と、呻吟する声がある。 いずれにしても、僕の耽溺した状態から遊離した心が理屈を捏ねるに過ぎないのであっ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ その、ヒッポの子、ネロが三歳の春を迎えて、ブラゼンバートは石榴を種子ごと食って、激烈の腹痛に襲われ、呻吟転輾の果死亡した。アグリパイナは折しも朝の入浴中なりしを、その死の確報に接し、ものも言わずに浴場から躍り出て、濡れた裸体に白布一枚・・・ 太宰治 「古典風」
・・・の内容の物語とおなじく悲劇的な結末を告げたけれど、彼の心のなかに巣くっている野性の鶴は、それでも、なまなまと翼をのばし、芸術の不可解を嘆じたり、生活の倦怠を託ったり、その荒涼の現実のなかで思うさま懊悩呻吟することを覚えたわけである。 ほ・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・何の意味も無く、こんな派手ともなんとも形容の出来ない着物を着て、からだを、くにゃくにゃさせて歩いていたのかと思えば、私は顔を覆って呻吟するばかりである。とても着られるものでない。見るのさえ、いやである。私は、これを、あの倉庫に永いこと預け放・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・総入れ歯の準備として、生き残った若干の歯を一度に抜いてしまったそのあとで顔じゅうふくれ上がって幾日も呻吟をつづけたのだそうである。歯科医術のまだ幼稚な明治十年代のことであるからずいぶん乱暴な荒療治であったことと想像される。 自分も、親譲・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・え間をつなぐ船歌の声、そういう種類のものの忠実なるレコードができたとすれば、塵の都に住んで雑事に忙殺されているような人が僅少な時間をさいて心を無垢な自然の境地に遊ばせる事もできようし、長い月日を病床に呻吟する不幸な人々の神経を有害に刺激する・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
出典:青空文庫