・・・ここのナンバーワンは誰かと訊いて、教えられたテーブルを見ると、銀糸のはいった黒地の着物をいちじるしく抜襟した女が、商人コートを着た男にしきりに口説かれていた。呼ぶとすらりとした長身を起して傍へ来た。豹一はぱっと赧くなったきりで、物を言おうと・・・ 織田作之助 「雨」
・・・しかし私には、美しくて若い彼の恋人を奥さんと呼ぶのは何となくふさわしくないような気がされて、とうとう口にすることはできなかった。 私たちは毎日打連れて猿にお米をくれに行ったり、若草山に登ったり、遠い鶯の滝の方までも散歩したりして日を暮し・・・ 葛西善蔵 「遊動円木」
・・・と言ったものの、あまり淋しがるので弟達を呼ぶことにしました。 弟達が来ますと、二人に両方の手を握らせて、暫くは如何にも安心したかの様子でしたが、末弟は試験の結果が気になって落ちつかず、次弟は商用が忙しくて何れも程なく帰ってしまいました。・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・その後S―はひどく酔ったときなどは、気持にはどんな我慢をさせてもという気になってついその女を呼ぶ、心が荒くなってその女でないと満足できないようなものが、酒を飲むと起こるのだと言った。 喬はその話を聞いたとき、女自身に病的な嗜好があるのな・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・『いい心持ちだ吉さんおいでよ』と呼ぶはお絹なり、吉次は腕を組んで二人の游ぐを見つめたるまま何とも答えず。いつもならばかえって二人に止めらるるほど沖へ出てここまでおいでとからかい半分おもしろう游ぐだけの遠慮ない仲なれど、軍夫を思い立ちてよ・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・互いの運命に責任を持ち合わない性関係は情事と呼ぶべきで、恋愛の名に価しない。 恋愛は相互に孤立しては不具である男・女性が、その人間型を完うせんために融合する作用であり、「を味う」という法則でなく、「と成る」という法則にしたがうものであり・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ 患者が看護人を呼ぶように、力のない、救を求めるような、如何にも上官から呼びかける呼び声らしくない声で、近松少佐は、さきに行っている中隊に叫びかけた。 中隊の方でも、こちらと殆んど同時に、左手のロシア人に気づいたらしかった。大隊長が・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・それより奥の方、甲斐境信濃境の高き嶺々重なり聳えて天の末をば限りたるは、雁坂十文字など名さえすさまじく呼ぶものなるべし。 進み進みて下影森を過ぎ上影森村というに至るに、秩父二十八番の観音へ詣らんにはここより入るべしと、道のわかれに立札せ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ と呼ぶ。 殿りの看守がそれをガチャン/\閉めて行く。 七時半になると「ごはんの用――意!」と、向う端の方で雑役が叫ぶ。そしたら、食器箱の蓋の上にワッパと茶碗を二つ載せ、片手に土瓶を持って、入口に立って待っている。飯の車が廊下を・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・しお器量優りのする小春があなたよくと末半分は消えて行く片靨俊雄はぞッと可愛げ立ちてそれから二度三度と馴染めば馴染むほど小春がなつかしく魂いいつとなく叛旗を翻えしみかえる限りあれも小春これも小春兄さまと呼ぶ妹の声までがあなたやとすこし甘たれた・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
出典:青空文庫