・・・偉い人間は、咄嗟にきっぱりと意志表示が出来て、決して負けず、しくじらぬものらしい。私はいつでも口ごもり、ひどく誤解されて、たいてい負けて、そうして深夜ひとり寝床の中で、ああ、あの時にはこう言いかえしてやればよかった、しまった、あの時、颯っと・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・ と念じて撃たば、まさに瓦鶏にも等しかるべし、やれ! と咄嗟のうちに覚悟を極め申候て、待て! と叫喚に及びたる次第に御座候。相手は、何かというけげんの間抜けづらにて、ちらと老生を見返り、ふんと笑って屋台の外に出るその背後に浴びせ更にまた一声・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・この男は別に切符をくれともなんとも言いはしなかったが、しかし、あの咄嗟の場合に、自分が、もう少し血のめぐりの早い人間であったら、何も考えないで即座に電車切符をやらないではおかないであったろうと思われるほどに実に気の毒な思いをそそる何物かがあ・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・自分ながらこの時は相手の寒い顔が伝染しているに相違ないと思った。咄嗟の間に死んだ女の所天の事が聞いて見たくなる。「それでその所天の方は無事なのかね」「所天は黒木軍についているんだが、この方はまあ幸に怪我もしないようだ」「細君が死・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 風が、唸った。雪が眼の中に吹き込んだ。「オイ、駄目だ。どうした!」 秋山は動かなかった。「オイ、もう直ぐだ。もうちょっとだ。我慢しろ!」 秋山は動かなかった。 咄嗟に小林は、秋山を引っ担いだ。 然し、一人でさえ・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・わたくし達は衝動に騙されて、咄嗟の間にいろんな事をいたします。そしてその時はその動機を認めずにいるのでございます。それを男の方が狡猾だとおっしゃるのでございます。 そこであの手紙を差上げます。電報の御返事が参ります。女中を連れてパリイへ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・右を見、左を見、体はひきそばめて、咄嗟に翔び立つ心構えを怠らない。可愛く、子供らしく、浮立って首を動かすのではない。何か痛ましい、東洋の不純な都会風の陰翳が、くっきり小さい体躯に写し出されて居るのである。 私は、その雀が、何かに怯えて、・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・の主人公ラヴィックが人間らしくまた医者らしい咄嗟の行動で往来の負傷者を救ったことからパリを逃れなければならなかった情景を思い起させる。 中里恒子氏の「マリアンヌ」その他の小説をよんだ人は、ファシズムの日本で国際結婚をして日本に来ていた外・・・ 宮本百合子 「それらの国々でも」
私の不幸というものについて書くように云われると、何となし当惑したような咄嗟の心持になるのは、私ひとりのことだろうか。世間で、不幸という言葉に対して幸福という形容で云われている、そういう生活が決して私の毎日にあるわけではない・・・ 宮本百合子 「フェア・プレイの悲喜」
・・・ 裏の小道を生垣沿いにかえりながら、私は何となしひとり笑えて来た。咄嗟に、自分のことにひきつけてあわてたような気持になったのが如何にも女房くさくて我ながら滑稽なのであった。 三四日してから、或る友達のところへ行ったら、主人は留守で子・・・ 宮本百合子 「まちがい」
出典:青空文庫