・・・草原に花をたずねて迷う蜂の唸りが聞える。 日が陰って沼の面から薄糸のような靄が立ち始める。 再び遠くから角笛の音、犬の遠吠えが聞えて来る。ニンフの群はもうどこへ行ったか影も見えない。・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・の代わりに、機械的に調律された恒同な雑音と唸り音の交響楽が奏せられていた。 祖母の紡いだ糸を紡錘竹からもう一ぺん四角な糸繰り枠に巻き取って「かせ」に作り、それを紺屋に渡して染めさせたのを手機に移して織るのであった。裏の炊事場の土間の片す・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・う、う、と唸りながら起きあがると、毛を逆だてて、背中をふくらませて近寄ってきた。私が一と足さがると二た足寄ってくる。二た足さがると三足寄ってくる。私はもう声が出ない。重い桶をになっているから自由もきかない。私が半分泣声になって叫ぶと、とたん・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・ 折から軒を繞る雨の響に和して、いずくよりともなく何物か地を這うて唸り廻るような声が聞える。「ああ、あれで御座います」と婆さんが瞳を据えて小声で云う。なるほど陰気な声である。今夜はここへ寝る事にきめる。 余は例のごとく蒲団の中へ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・壁の奥の方から唸り声さえ聞える。唸り声がだんだんと近くなるとそれが夜を洩るる凄い歌と変化する。ここは地面の下に通ずる穴倉でその内には人が二人いる。鬼の国から吹き上げる風が石の壁の破れ目を通って小やかなカンテラを煽るからたださえ暗い室の天井も・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ 海抜二千尺、山峡を流るる川は、吹雪の唸りと声を合せて、泡を噛んでいた。 物の音は、それ丈けであった。 掘鑿の中は、雪の皮膚を蹴破って大地がその黒い、岩の大腸を露出していた。その上を、悼むように、吹雪の色と和して、ダイナマイトの・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・ほら、もう唸り声がする。洞のつい入口まで来た。ウオー、ウオー、美味そうな子を入口の幅が狭いため食えないのを怒って彼は盛に唸りつつ嗅ぎ廻る。私は段々本気になり、抱いている子に「大丈夫よ、大丈夫よ」と囁く。太ったもう一人の弟は被った羽織の下で四・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・ある一つの工場が五ヵ年計画を基本とした自身の生産プランを大衆的に受け入れた瞬間から今日まで、そこの仲間は機械によって結ばれ、ベルトの唸りで互に繋がれ、企業内の妨害分子と闘いつつ、高く、高くと、プロレタリアの生産と文化を引きあげて来た連中だ。・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
・・・ 今野は唸っている。唸りながら時々充血して痛そうな眼玉をドロリと動かしては、上眼をつかい、何かさがすようにしている。自分は、廊下の外から枕元の金網に鼻をおしつけるようにして見守った。間もなく、今野は唸るのをやめ、力いっぱい血走った眼で上・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・が、二人の塊りは無言のまま微かな唸りを吐きつつ突き立って、鈍い振子のように暫く左右に揺れていた。「此の餓鬼めッ。」「くそったれッ。」 勘次の身体は秋三を抱きながら、どっと後の棺を倒して蒲団の上へ顛覆した。安次の半身は棺から俯伏に・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫