・・・ しゅうど 美わしき菫の種と、やさしき野菊の種と、この二つの一つを石多く水少なく風勁く土焦げたる地にまき、その一つを春風ふき霞たなびき若水流れ鳥啼き蒼空のはて地に垂るる野にまきぬ。一つは枯れて土となり、一つは若葉・・・ 国木田独歩 「詩想」
・・・村の小川、海に流れ出る最近の川柳繁れる小陰に釣を垂る二人の人がある。その一人は富岡先生、その一人は村の校長細川繁、これも富岡先生の塾に通うたことのある、二十七歳の成年男子である。 二人は間を二三間隔てて糸を垂れている、夏の末、秋の初の西・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・ 詩人は声はり上げて『わが心高原にあり』をうたい、『いざ去らば雪をいただく高峰』の句に至りて、その声ひときわ高く、その目は遠く連山の方を見やりて恋うるがごとく、憤るがごとく、肩に垂るる黒髪風にゆらぎ昇る旭に全身かがやけば、蒼空をかざして・・・ 国木田独歩 「星」
・・・たとえばキリストの山上の垂訓にあるように、「隣人を愛せよ」とか「姦淫するなかれ」とか発言することができずに、「汝の意欲の準則が普遍的法則たり得るように行為せよ」とか、「汝の現在の態度について、汝自身に忠実であり得るように態度をとれ」とかいい・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・子安が東京から来て一月ばかり経つ時分には藤の花などが高い崖から垂下って咲いていた谷間が、早や木の葉の茂り合った蔭の道だ。暗いほど深い。 岡の上へ出ると、なまぬるい微かな風が黄色くなりかけた麦畠を渡って来る。麦の穂と穂の擦れる音が聞える。・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・長く濃かった髪は灰色に変って来て、染めるに手数は掛かったが、よく手入していて、その額へ垂下って来るやつを掻上げる度に、若い時と同じような快感を覚えた。堅い地を割って、草の芽も青々とした頭を擡げる時だ。彼は自分の内部の方から何となく心地の好い・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・御垂教を得れば幸甚である。」と巻末に附記して在る。私が、それを知っていると面白いのであるが、知る筈がない。君だって知るまい。笑っちゃいけない。 不思議なのは、そんなことに在るのでは無い。不思議は、作品の中に在るのである。私は、これから六・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・斎藤月岑の東都歳事記に挙ぐるものを見れば、谷中日暮里の養福寺、経王寺、大行寺、長久院、西光寺等には枝垂桜があり、根津の社内、谷中天王寺と瑞輪寺には名高い八重咲の桜があったと云う。 一昨年の春わたくしは森春濤の墓を掃いに日暮里の経王寺に赴・・・ 永井荷風 「上野」
・・・荒布の前掛を締めた荷揚の人足が水に臨んだ倉の戸口に蹲踞んで凉んでいると、往来際には荷車の馬が鬣を垂して眼を細くし、蠅の群れを追払う元気もないようにじっとしている。運送屋の広い間口の店先には帳場格子と金庫の間に若い者が算盤を弾いていたが人の出・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・虹中天に懸り宮溝の垂楊油よりも碧し。住み憂き土地にはあれどわれ時折東京をよしと思うは偶然かかる佳景に接する事あるがためなり。 巴里にては夏のさかりに夕立なし。晩春五月の頃麗都の児女豪奢を競ってロンシャンの賽馬に赴く時、驟雨濺来って紅囲粉・・・ 永井荷風 「夕立」
出典:青空文庫