・・・長煙管で灰吹の筒を叩く音、団扇で蚊を追う響、木の橋をわたる下駄の音、これらの物音はわれわれが子供の時日々耳にきき馴れたもので、そして今は永遠に返り来ることなく、日本の国土からは消去ってしまったものである。 英国人サー・アーノルドの漫遊記・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・ 然るに当夜観客の邦人中には市中の旅館に宿泊して居る人ででもあるのか、平袖の貸浴衣に羽織も着ず裾をまくり上げて団扇で脛をあおいでいる者もあり、又西洋人の中には植民地に於てのみ見受けられる雑種児にして、其風采容貌の欧洲本土に在っては決して・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・やがて朱塗の団扇の柄にて、乱れかかる頬の黒髪をうるさしとばかり払えば、柄の先につけたる紫のふさが波を打って、緑り濃き香油の薫りの中に躍り入る。「我に贈れ」と髯なき人が、すぐ言い添えてまたからからと笑う。女の頬には乳色の底から捕えがたき笑・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・余が身体を拭いて、茣蓙の敷いてある縁先で、団扇を使って涼んでいると、やがて長谷川君が上がって来た。まず眼鏡をかけて、余を見つけ出して、向うから話しを始めた。双方とも真赤裸のように記憶している。しかし長谷川君の話し方は初対面の折露西亜の政党を・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・ 運河には浚渫船が腰を据えていた。浚渫船のデッキには、石油缶の七輪から石炭の煙が、いきなり風に吹き飛ばされて、下の方の穴からペロペロ、赤い焔が舌なめずりをして、飯の炊かれるのを待っていた。 団扇のような胴船が、浚渫船の横っ腹へ、眠り・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・川手水少年の矢数問ひよる念者ぶり水の粉やあるじかしこき後家の君虫干や甥の僧訪ふ東大寺祇園会や僧の訪ひよる梶がもと味噌汁をくはぬ娘の夏書かな鮓つけてやがて去にたる魚屋かな褌に団扇さしたる亭主かな青梅に眉あつめた・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
はじめて大町米子さんにあったのは、いまから十年ばかりまえのことであった。友達から紹介されて、うちへいらした。夏の夜だったとおもう。団扇をつかいながらいろいろ話がでて、大町さんはだんだん自分のくるしい境遇のことや、結婚の問題・・・ 宮本百合子 「大町米子さんのこと」
・・・そして人々は煙を団扇で追いながら、とりとめもなく夏の夜を話し更かすのです。何か怪談のような話題でも出ますと、つい杉葉のきれたのも忘れてしまって、攻め寄せてくる蚊軍に驚いて「どうだいちっとくべようじゃないか」と云う風にまたくべ出したりするよう・・・ 宮本百合子 「蚊遣り」
・・・婆あさんは例のまま事の真似をして、その隙には爺いさんの傍に来て団扇であおぐ。もう時候がそろそろ暑くなる頃だからである。婆あさんが暫くあおぐうちに、爺いさんは読みさした本を置いて話をし出す。二人はさも楽しそうに話すのである。 どうかすると・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
・・・では小さい面が光のぐあいで大きく映ったのかしらと床柱の側まで行って見ると、そこに掛かっているのはただ羽団扇と円い団扇だけであった。しかし影は格好から、釣合から、どうしてもほんとうの面としか見えなかった。あまりうまくできているのでその面が奇妙・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫