・・・ 「すべての市は、その市に固有なにおいを持っている。フロレンスのにおいは、イリスの白い花とほこりと靄と古の絵画のニスとのにおいである」もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるのになんの躊躇もしないで・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・われわれの国の固有の伝統と文明とは、東京よりも却って諸君の郷土に於て発見される。東京にあるものは、根柢の浅い外来の文化と、たかだか三百年来の江戸趣味の残滓に過ぎない。大体われ/\の文学が軽佻で薄っぺらなのは一に東京を中心とし、東京以外に文壇・・・ 織田作之助 「東京文壇に与う」
・・・そしてそれの暗示する言語が東京のそれでもなく、どこのそれでもなく、故郷の然も私の家族固有なアクセントであることを知りました。――おそらく私は一生懸命になっていたのでしょう。そうした心の純粋さがとうとう私をしてお里を出さしめたのだろうと思いま・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・元来一つの物に一つの色彩が固有しているというわけのものではない。だから私はそれをも偽瞞と言うのではない。しかし直射光線には偏頗があり、一つの物象の色をその周囲の色との正しい階調から破ってしまうのである。そればかりではない。全反射がある。日蔭・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗りの板だったように思える。何か華やかな美しい音楽の快速調の流れが、見る人を石に化した・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・この固有思想と五行等の新來思想とが合せる時、その宗教的方面に結びつきしは方士の類なり。後に道教となり風水説となれり。その道徳的方面に結びつきしは儒教也、易也。而して『書經』『禮記』は五行分子多く、孔子の説は道徳的分子に富みたり。 而して・・・ 白鳥庫吉 「『尚書』の高等批評」
・・・驚いて見ていると、この暴君はまもなくこの哀れな俘虜を釈放して、そうしてあたかも何事も起こらなかったように悠々とその固有の雌鳥の一メートル以内の領域に泳ぎついて行った。善良なるその妻もまたあたかもこの世の中に何事も起こらなかったかのように平静・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・外国の文化にかぶれたものが、もう一遍立帰って来たときに始めて日本固有の文化の善い所が新しい眼で見直されるということもあるかもしれないのである。 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・ 自分も子供固有の好奇心から何度か祖母に教わったこの糸車で糸を紡ぐまねをした記憶がある。綿を「打った」のを直径約一センチメートル長さ約二十センチメートルの円筒形に丸めたものを左の手の指先でつまんで持っている。その先端の綿の繊維を少しばか・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・ 発声映画 無声映画がようやく発達して、演技や見世物の代弁の地位を脱却し、固有の領域を設定しかけたときに、突然発声映画の器械が市場に現われた。それがためにようやく「雄弁」になりかけた無声映画は突然「おし」にされてしま・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
出典:青空文庫