・・・彼れはかっと喉をからして痰を地べたにいやというほどはきつけた。 夫婦きりになると二人はまた別々になってせっせと働き出した。日が傾きはじめると寒さは一入に募って来た。汗になった所々は氷るように冷たかった。仁右衛門はしかし元気だった。彼れの・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・もう私も生きて居たくない……吾知らず声を出して僕は両膝と両手を地べたへ突いてしまった。 僕の様子を見て、後に居た人がどんなに泣いたか。僕も吾一人でないに気がついてようやく立ちあがった。三人の中の誰がいうのか、「なんだって民子は、政夫・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ を繰返し続けたが、だんだんその叫び声が自分ながら霜夜に啼く餓えた野狐の声のような気がされてきて、私はひどく悲しくなってきて、私はそのまま地べたに身体を投げだして声の限り泣きたいと思った。雨戸を蹶飛ばして老師の前に躍りだしてやるか――がその・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・ 私は生れてはじめて地べたに立ったときのことを思い出す。雨あがりの青空。雨あがりの黒土。梅の花。あれは、きっと裏庭である。女のやわらかい両手が私のからだをそこまで運びだし、そうして、そっと私を地べたに立たせた。私は全く平気で、二・・・ 太宰治 「玩具」
・・・われはその金口の外国煙草からおのが安煙草に火をうつして、おもむろに立ちあがり、金口の煙草を力こめて地べたへ投げ捨て靴の裏でにくしみにくしみ踏みにじった。それから、ゆったり試験場へ現れたのである。 試験場では、百人にあまる大学生たちが、す・・・ 太宰治 「逆行」
・・・東京は、この二、三日ひどい風で、武蔵野のまん中にある私の家には、砂ほこりが、容赦無く舞い込み、私は家の中に在りながらも、まるで地べたに、あぐらをかいて坐っている気持でありました。きょうは、風もおさまり、まことに春らしく、静かに晴れて居ります・・・ 太宰治 「三月三十日」
・・・にわかに詩人の友だちもふえて、詩人というものはただもう大酒をくらって、そうして地べたに寝たりなんかすると、純真だとか何だとか言ってほめられるもので、私も抜からず大酒をくらって、とにもかくにも地べたに寝て見せましたので、仲間からもほめられ、そ・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・ はじめこの家にやってきたころは、まだ子供で、地べたの蟻を不審そうに観察したり、蝦蟇を恐れて悲鳴を挙げたり、その様には私も思わず失笑することがあって、憎いやつであるが、これも神様の御心によってこの家へ迷いこんでくることになったのかもしれ・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・私たち親子四人は、一枚の敷蒲団を地べたに敷き、もう一枚の掛蒲団は皆でかぶって、まあここに踏みとどまっている事にした。さすがに私は疲れた。子供を背負ってこの上またあちこち逃げまわるのは、いやになっていた。子供たちはもう蒲団の上におろされて、安・・・ 太宰治 「薄明」
・・・貴下は御自分の貧寒の事や、吝嗇の事や、さもしい夫婦喧嘩、下品な御病気、それから容貌のずいぶん醜い事や、身なりの汚い事、蛸の脚なんかを齧って焼酎を飲んで、あばれて、地べたに寝る事、借金だらけ、その他たくさん不名誉な、きたならしい事ばかり、少し・・・ 太宰治 「恥」
出典:青空文庫