・・・それからは坂道はいくらもなくって、すぐに広々とした台地に出た。そこからずっとマッカリヌプリという山の麓にかけて農場は拡がっているのだ。なだらかに高低のある畑地の向こうにマッカリヌプリの規則正しい山の姿が寒々と一つ聳えて、その頂きに近い西の面・・・ 有島武郎 「親子」
・・・沼の干たような、自然の丘を繞らした、清らかな境内は、坂道の暗さに似ず、つらつらと濡れつつ薄明い。 右斜めに、鉾形の杉の大樹の、森々と虚空に茂った中に社がある。――こっちから、もう謹慎の意を表する状に、ついた杖を地から挙げ、胸へ片手をつけ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・金剛神の大草鞋は、宙を踏んで、渠を坂道へ橇り落した。 清水の向畠のくずれ土手へ、萎々となって腰を支いた。前刻の婦は、勿論の事、もう居ない。が、まだいくらほどの時も経たぬと見えて、人の来て汲むものも、菜を洗うものもなかったのである。 ・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ そういって、彼女は、坂道を駈け下りるようにして、急ぎました。 あたりには人の影もなかったのです。くりの木のこずえについていた枯れた葉は、今夜の命も知らぬげに、やはり、ひらひらとして、風の吹くたびに歌をうたっていました。そしてふもと・・・ 小川未明 「谷にうたう女」
・・・ 家を出て、表門の鳥居をくぐると、もう高津表門筋の坂道、その坂道を登りつめた南側に「かにどん」というぜんざい屋があったことはもう知っている人はほとんどいないでしょう。二つ井戸の「かにどん」は知っている人はいても、この「かにどん」は誰も知・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・谷町九丁目の坂道を降りて千日前へ出た。珍しく霧の深い夜で、盛り場の灯が空に赤く染まっていた。千日前から法善寺境内にはいると、そこはまるで地面がずり落ちたような薄暗さで、献納提灯や灯明の明りが寝呆けたように揺れていた。境内を出ると、貸席が軒を・・・ 織田作之助 「雨」
・・・やはり坂道を泥まみれになって転がって行く円い玉であった。この円い玉をどこまで追って行っても、世相を捉えることは出来ない。目まぐるしい変転する世相の逃足の早さを言うのではない。現実を三角や四角と思って、その多角形の頂点に鉤をひっかけていた新吉・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・焼跡に暫らく佇んで、やがて新世界の軍艦横丁を抜けて、公園南口から阿倍野橋の方へ広いコンクリートの坂道を登って行くと、阿倍野橋ホテルの向側の人道の隅に人だかりがしていた。広い道を横切って行き、人々の肩の間から覗くと、台の上に円を描いた紙を載せ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・うの字峠の坂道を来ると、判事さんが、ちょっと立ち止まって、渓流の岩の上に止まっていた小さな真っ黒な鳥を打った。僕が走って行ってこれを拾うて来て判事さんに渡すと、判事さんは何か小声で今井の叔父さんに言ったが、叔父さんはまじめな顔をして『ありが・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・短き坂道に来たりし時、下より騎兵二騎、何事をか声高に語らいつつ登りくるにあいたれどかれはほとんどこれにも気づかぬようにて路をよけ通しやりぬ。騎兵ゆき過ぎんとして、後なる馬上の、年若き人、言葉に力を入れ『……に候間至急、「至急」という二字は必・・・ 国木田独歩 「わかれ」
出典:青空文庫