一 ――ほこりっぽい、だらだらな坂道がつきるへんに、すりへった木橋がある。木橋のむこうにかわきあがった白い道路がよこぎっていて、そのまたむこうに、赤煉瓦の塀と鉄の門があった。鉄の門の内側は広大な熊本煙草専売局工・・・ 徳永直 「白い道」
・・・車はゆるやかな坂道をば静かに心地よく馳せ下りて行く。突然足を踏まれた先刻の職人が鼾声をかき出す。誰れかが『報知新聞』の雑報を音読し初めた。 三宅坂の停留場は何の混雑もなく過ぎて、車は瘤だらけに枯れた柳の並木の下をば土手に沿うて走る。往来・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・命の欲しい者は用心じゃと云う文句が聖書にでもある格言のように胸に浮ぶ。坂道は暗い。滅多に下りると滑って尻餅を搗く。険呑だと八合目あたりから下を見て覘をつける。暗くて何もよく見えぬ。左の土手から古榎が無遠慮に枝を突き出して日の目の通わぬほどに・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・下から多勢の遊山客がのぼって来るが、急なその坂道は、眺望のよいのにかかわらず、いかにも辷りやすい。広業寺のもちものだから、横木を入れれば余程楽しるのに。十本も入れてくれれば、何ぼいいかしんないのにねえ、と、山の茶屋のお内儀が話した。でも、尼・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
・・・或るところで一坪ほどの地面が大きな一本の躑躅ごと坂道へ雪崩れ込んでいた。根こぎにされたまま、七八尺あるその野生の躑躅は活々樺色の花をつけていた。 真先に詮吉が東京へ帰った。なほ子もやがて立つことになったが、単調な山の中に半月もいて、・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・そういうわけで、田端の駅は、その高台からまるで燈台の螺旋階段のように急な三折ほどの坂道で、ダダダダと駈けおりたところに在った。その急な小径の崖も赭土で、ここは笹ばかりが茂っていた。穴蔵の中に下りてゆくように夏その坂道は涼しかった。そして、冬・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・ 重い白土の俵を背負って、今日も禰宜様宮田は、急な坂道を転がりそうにして下りて来た。 窮した彼は、近所の山から掘り出す白土――米を搗くときに混ぜたり、磨き粉に使ったりする白い泥――を、町の入口まで運搬する人足になっていたのである。・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・ この時只一人坂道を登って来て、七人の娘の背後に立っている娘がある。 第八の娘である。 背は七人の娘より高い。十四五になっているのであろう。 黄金色の髪を黒いリボンで結んでいる。 琥珀のような顔から、サントオレアの花のよ・・・ 森鴎外 「杯」
・・・ 厨子王は十歩ばかり残っていた坂道を、一走りに駆け降りて、沼に沿うて街道に出た。そして大雲川の岸を上手へ向かって急ぐのである。 安寿は泉の畔に立って、並木の松に隠れてはまた現われる後ろ影を小さくなるまで見送った。そして日はようやく午・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
一 丘の先端の花の中で、透明な日光室が輝いていた。バルコオンの梯子は白い脊骨のように突き出ていた。彼は海から登る坂道を肺療院の方へ帰って来た。彼はこうして時々妻の傍から離れると外を歩き、また、妻の顔を新・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫